No.82 花と現代美術品

S090421cap_3 狭い我が家の庭でも4月、5月の庭の緑は目に優しく、生気に溢れている。一年のうちで私が一番好きな季節である。
花の命は短く切ないといわれる。なるほどムクゲ、アサガオなどのように朝開いて夕方に萎む花(槿花キンカ)も多いが、そんな花でも蕾が沢山ついて次々と開いてゆき、結局半月近くも楽しませて呉れるときがある。
一期一会の気持ちから、この花の最高の美しさはいましかないと思うときや、もう来年の出逢いは無いかも知れないと思うとき、いきおい私のデジカメは出番が多くなる。

S090421_2 しかしこうしたブログに発表するとき困るのが花の「本名」だ。私は植物の専門家でもないし、身近に図鑑や文献もないので、正しい花の名前を知らないことが多い。結局無責任ながら我が家での通称が大手を振って世間を渡ることになる。                 

若い時は図書館の分厚い図鑑をめくって花の名前を確かめたこともあるが、今日では便利なインターネットのお蔭で、他人のHPやウイキペディアなどから、名前や原産地などを参考にさせて貰うこともある。しかし注意しなければならないのは、中には「孫引き」もあって、全幅の信頼は出来ないことだ。          S090519cap                                                                                

私が嘗て技術者をやっていたとき、誤植か不注意な孫引きからか、技術図書中の引用文献の原典に到着できなかったことがあった。

また、数年前のこと。インターネットでルーブル美術館の1日の入場者数を調べたとき、コピーかと思われる程4万人/1日という数字が見られ、それでは年間ざっとみても1200万人かと驚いたが、恐らくこれこそが孫引きではなかったろうか。
最近再度ルーブル美術館の入場者数を調べたところ、この4万人/1日説のほかに年間500万人説、840万人説なども見られて大分常識的になってきたようで一安心したところだ。

ここに登場させた花の写真は、作品1枚のために20枚位撮影している。それを可能にしているのが庭先の花だからということと、デジカメのおかげである。勿論花が好きでHPを作っている人達は私と同じようなことをやっておられるに相違ない。

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ところで私は、「この花は美しい」、「この写真は美しさをよく表現できた」と自慢して皆さんに押しつけているところがある。
だが時に私は、花に対する感性、感覚的能力、或いは美意識は人間に共通したものかどうか?と疑問に思うことがある。もっと広くいえば「真・善・美」は人間の普遍妥当な価値であろうS090525か?という疑問である。

私は「現代美術」というものが全く理解できない。「醜悪」とまではいわないまでも「ときめき」を感じないのだ。しかしそういった前衛的作品にお金をかけて美術館を建設しようというのだから、評価できる人もいるのであろう。そう考えれば「美意識は人間に共通する普遍妥当なもの」と考えては間違いかも知れない。「美意識は人それぞれであり、自分の好悪、価値観を他人に押しつけてはならない」と。

先日(2009.05.27)の朝日新聞大阪北摂版によれば府は90年代総額9億5562万円を投じて7,800点の現代美術品を購入しているが、府立現代美術センター構想(1988)がその後景気悪化による財政難で2001年に白紙となり、展示場所や保管場所に苦労していと書いている。それら作品の一部であろうが以前から大阪モノレール駅構内のコンコースに展示してある。私は「美しさ」を全く感じないでいるが、立ち止まって熱心に見ている人もいないようであり評価出来ない人が多数派であろとも思う。

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81:2009年新春雑感

S  1:成人式と非正社員問題
2:国旗
3:大河ドラマ「天地人」
4:年賀状問題
5:消防出初式

1:成人式と非正社員
今年は百年ぶりといわれる世界規模の大不況の中に明けた。12日(月)成人式、彼らへの祝福が嫌みや皮肉に聞こえるような経済不況の荒海の中に船出した。新成人のみならずこの春希望に燃えて新社会人として、第一歩を踏み出す筈の若者にも内定取り消しなど、就職難民への危機が待ちかまえている。「頑張れ!」と言いたいところだが、「どう頑張れと言うのか?」と反問されれば私はどう答えたらいいのか?

成人式など無かった我々の世代、新社会人となった1952年春(敗戦後7年)、入社式には殆どの同僚が紺色既製服の背広で臨んだ。紺色ヘリンボン背広生地、ようやくそんな生地が出回り初めていた。既製服背広約1万円、4月の初任給が9千円の時代であった。そのためか、学生服のまま入社式に臨んだ友人もいた。現在とは比較にならない貧しい時代であった。
                                                                              
コンピュータの進歩によって金融、生産、物流、販売などの業務、管理、情報処理、伝達といった一連の社会システムが構築され、今日のグローバル化社会が出現したと考えてよかろう。しかしこのグローバル化が皮肉にも不況を世界中に拡散、伝搬したと考えられる。
こうして、本来不況の責任を負うべき大人達もなす術も無く、人生の先輩らしい知恵や体験で若者に助言することも出来ないでいる。

非正社員の問題であるが、25年ほど前のこと。我々の職場に事務職として配置された女子事務員は10時出勤、午後3時退出という当時としては驚くような変則勤務であった。私は「何故そんな勤務を希望するのか?」とその女性に尋ねた。「自分の都合に合わせて勤務時間帯を自由に選べるのです」と。当時珍しく感じたことを思い出す。私は新しい時代の到来を半ば感心しながらも何か不安に感じた。「古き良き時代の日本の労働慣行が崩壊するのでは?」という思いだった。
この制度は1985年に成立した労働者派遣法(施行は86年)によってそれまでの規制が緩和されたもので、当時、事務職に限られていたようである。2003年の改正で派遣期間の上限を1年から3年に延長、さらに製造業への派遣も解禁となった。こうして製造業への正式適用は2004年3月1日から始まり、今回の経済不況の中での「派遣切り」というような悲劇に発展したようである。

この法制化の背景は、テレビや新聞で解説されているが、産業界が不況時の労働力の調整弁としていつでも雇い止め(契約更新しないこと)ができるように80年代になって国に労働者派遣法の制定を強く求めたこと。与党もこうした産業界の要請に応じ、野党の「不安定雇用の増加につながる」という反対を押し切って制定されたという。日本の労働法制は、もともと「雇用されて働く正社員」を前提として規定されており、派遣労働は禁じられていたと報じている。
毎日新聞社(http://www.mainichi.co.jp/syuppan/economist/050322/1.html

こうしてこの約20年間に国は、派遣労働の「規制」から「推進」へと大転換し、雇用は多様化し、国際競争力の強化に貢献したとも言えるが、その一方で「同一労働・同一賃金への取り組み努力」を国は怠ったといわれている。
1月30日の朝日新聞夕刊によれば2008/10~2009/3間の、失職する非正社員は12万4800人、今春就職予定者のうち、内定を取り消された大学生・高校生は1215人になったという。
危惧はいよいよ現実となってきた。一個人では対処出来がたい規模の問題、政府に一日も早い対応、対策を求めるところだ。
 
2:国旗
1日、近所の神社に初詣した折町中の日章旗を探したが交番と、ある民家それに我が家のみであった。祝日は旗日である。旗も立てず祝日を単に休日に終わらせている責任は誰に在るのであろうか?S_2

写真は昨年11月末、芦ノ湖で見た遊覧船で、船尾に日章旗がはためいていた。よくぞと思ったが、実は船舶は日章旗の掲揚を義務付けられているという。公海でない芦ノ湖では無意味のように思われたがへんぽんとひるがえる様は美しかった。
祝祭日には日本人は誇りを持って日章旗をに立てて欲しいし、在日外国人は日本の旗日を共に祝っても良し、母国の祝祭日を堂々と自国の国旗で飾っても良かろう。

3:大河ドラマ「天地人」
今年(2009)のNHKの大河ドラマ「天地人」が始まった。この「天地人」という表題は簡略化されているためどう解釈すべきか気になるところだ。
この語源は「天の時は地の利に如(し)かず地の利は人の和に如かず(「孟子‐公孫丑下」による)」即ち人の和に及ぶものはないという意味が一般的である。
出典:
http://members.jcom.home.ne.jp/diereichsflotte/XunziMencius/LuckyIsNotAsLooksIsNotAsCooperation.html(酒匂貴一氏)

出典:天の時は地の利に及ばず、地の利は人の和に及ばない。
http://www001.upp.so-net.ne.jp/tomiyan/kotenpage44.htm

しかしドラマの著者「火坂 雅志 ひさかまさし」氏はいう。
「『天地人』は、上杉家の知謀の執政・直江兼続の生涯を描いた作品。『天地人』というタイトルの由来は?上杉謙信の言葉に由来します。
『天の時、地の利、人の和の三つが整ったときに、物事はうまくいく』ということを言っている。なかなかそれを整えられる大将は古今東西少ない。でもそれを整えることに務めなさいということです。直江兼続もその教えを受けたということで、そういうタイトルになっています」という。

実は私のブログNo.18(2005.06.05付け、カテゴリーをクリック)で私も本来の意味(孟子)と異なる使い方をしたことをことわっている。「天」、「地」、「人」の三者が一体化した時初めて偉大な成果が得られるという解釈をした。
「当時、佐賀は何故にこうも人材を輩出し得たであろうか?その原因の一つはまさに『地の利』であり、その地の利に育てられた人材(『人の和』)が明治維新という『天の時』に遭遇し活躍した」と私は解釈した。

しかし天、地、人の三者一致は、人為的に努力して成るというものではあるまい。三者一致のチャンスは偶然に来るとしても、それを生かし切るかどうかは「将」の力量であろう。
こう考えてくれば孟子の原典とは別に、新しい解釈として「天地人」とは「三者一致の成果」を成句として考えてもいいのではなかろうか?
火坂 雅志氏の、原典を無視して上杉謙信の言葉として披露した理由は、私と同じ発想であろうか?

4:年賀状問題
私は一昨年(2007)末作成の年賀状に、今回限りにさせて頂きたい旨の添え書きをした年賀状が少々ある。比較的お付き合いが浅く、惰性的に年賀状を交換している方々への年賀状の問題である。私はこのまま継続することは反って先方にご迷惑ではないか?と考えたためだが、後期高齢者の私であれば少しずつ身辺整理をという気持ちもあった。ただ、代案として必要に応じて適時メールで連絡や近況報告などはさせて貰いたい旨の付記もした。
この問題の結論をいえば、私の申し出に対して、数名の方には同意して頂いた。しかし若い方の中には私の申し出にも拘わらず今年も年賀状を送って頂いた方もあり、これをどう理解するか私は複雑な気持ちである。

また逆に、昨年のお正月に後期高齢者の方から頂いた年賀状に、今年限りにさせて頂きたいと付記のあった年賀状があった。私は先方の申し出に忠実に従って今年は欠礼した。
しかし家人が言うに「先方は、年齢的に自分で年賀状をしたためることが苦痛になっての申し出ではあろう。しかし年賀状を貰えば嬉しいに違いないので、出した方が良いのではないだろうか?」という。こちらも私の思いは複雑である。

5:消防出初式
1月11日、私は生涯で初めて私が住む町の消防出初式を見学した。S_3
消防出初式は毎年新春早々に、消防職員、団員の職務遂行への決意向上と士気高揚を目的に、合わせて一般市民の防火思想の普及を図ることを目的に消防出初式が開催されるようである。
私など消防車両といえば消防ポンプ車と思っていたが観閲で見た車両は化学車、タンク車、ポンプ車、救助工作車、人員搬送車、特殊災害支援車、救助工作車など多岐に亘っており、また、一口に消防署員といっても、市の消防職員の他に地域の安全は自分たちで守るべく組織された消防団員、更には家庭からの火災発生を防止すべく組織された女性防火クラブ、幼稚園には幼年消防クラブが、また日本レスキュー協会災害救助犬なども組織されていることを初めて知った。
これらの行事の合間に消防音楽隊の演奏があり、三連はしご訓練、一斉放水、更には近隣高校の女子チアリーダーのショーを見学し、有意義な一日であった。(2009.01.31) 
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No.80 むべ(郁子・野木瓜)の実が色づいた

もう35年ほど前から、我が家の裏門柱とフェンスを飾ってくれている蔓性の常緑低木がこの「むべ」だ。春に白い花が咲き、今頃(11月)卵型、暗紫色の実が生る。
通りかかった人に「あけび」ですか?とよく尋ねられる。いや、「うべ」ですよ。「食べられますか?」「いや食べたことはありません」と私。実は我が家ではこれまで「うべ」と言って来たが、インターネットで調べると間違いではないが「むべ」が正式名のようだ。

デジタル大辞泉によれば「アケビ」科の蔓性の常緑低木。山地に生え、葉は手のひら状の複葉。5月頃雌花と雄花とをつける(雌雄同株)。実(み)は熟しても裂けず、生食される。ときわあけび。うむべ。うべ。《季 秋 花=春》
「むべの門くぐりてつねのごと帰る/素逝」とある。
私も長年、むべの蔓の下をくぐって出入りして来たが心得のない私にはそんな句は浮かばなかった。As20080411cap                                                       Bs20080411cap

雌花と雄花があることは分かるがどちらが雌花か分からないので皆さんのホームページやブログ覗いて教えて貰い写真に書き入れた。
食べられるかどうかについても、ジャムなどにしてたべられるという情報もあった。Cs20080723cap Ds20081105cap
詳しく知りたい人は下記のホームページをご覧頂きたい。(2008.11.06)

参考資料Fs

Escap

 

http://shinrin.cool.ne.jp/sub242.html 雌花と雄花を明瞭に写してある

http://homepage2.nifty.com/hanasaka/eff-sub/ubejam.htm むべジャムの作り方

http://plaza.rakuten.co.jp/Gmama/diary/200611150000/ Gままのひとりごと

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No.79:私の雑感、ドラマ「あの日、僕らの命はトイレットペーパーよりも軽かった」を見て

「歴史に『もし』はない」と言われる。戦陣訓(*1)で洗脳された黒木軍曹と、もし出会わなかったら大脱走事件はあるいは発生せず、終戦時に全員無事帰国出来たかも知れない…。                                                                   Map
また、このドラマの元となっている事件は公知ではないとしても幾たびかマスコミに取り上げられている。そういう話題を何故いま取り上げたのか?という疑問もわく。                                                         
このドラマ(*2)は、オーストラリア・カウラ捕虜収容所で1944年(昭和19年)8月5日発生した大脱走事件を素材とした脚本家中園ミホさんの作品を、「日本テレビ開局55年記念スペシャルドラマ」として、この夏(2008年7月8日)テレビ放映したものである。中園ミホさんの大叔父佐藤憲司氏(現・87歳)のカウラ捕虜収容所体験談がこのドラマ誕生のきっかけとなったという。

陸軍を掌握してきた東条英機陸相が「軍人勅諭」の実践を目的にその具体的な行動規範として昭和16年(1941)1月8日公布したのが「戦陣訓」であるという。その第八の「名を惜しむ」に、
「恥を知る者は強し。常に郷党家門の面目を思ひ、愈々奮励して其の期待に答ふべし。生きて虜囚の辱を受けず、死して罪禍の汚名を残すこと勿れ。軍人は、捕虜となって生き恥をさらすな!その際は自ら死を選べ!…と説く。

カウラ事件(*3)は日本人捕虜(一般人を含む)1104人中、死亡231名、看守死亡4名、合計235名の犠牲者を出した大脱走事件である。
ドラマのイントロによればこの事件はオーストラリアではよく知られた有名な事件であるが、日本の歴史教科書には登場しない。理由は、事件当時日本政府は「日本軍に捕虜はいない」として隠蔽したことによるという。

あらすじ:                                  
「昭和19年1月、『夏9853部隊(正式名歩兵第141連隊)』に所属する朝倉憲一兵長(小泉孝太郎)は上官の嘉納二郎伍長(大泉洋)と共にニューブリテン島で連合国軍と戦っていた。悪化する戦況。食糧も尽き、仲間ともはぐれ、何十日もひたすら逃げ続けるしか出来なかった2人の前にある日、連合国軍の海兵隊が現れた。……そうしてたどり着いたカウラ第12捕虜収容所。

そこで憲一は思いもよらぬ光景を目の当たりにする。ヒューマニズム(人道主義)と言うべきであろう、収容所では、"傷病者の状態改善に関する赤十字条約(ジュネーブ条約)を日本人にも適用していた。しかし日本人捕虜はジュネーヴ条約の条文を理解しておらず、また当時の、日本軍・日本人社会の ”生きて虜囚の辱めを受けず” という考え方や、欧米やオーストラリアの”国を代表して全力で戦った名誉ある捕虜” という認識との相違により、オーストラリア人と日本人捕虜との間ではコミュニケーションがあまりとられなかった。
作業はトマトやブドウの栽培、薪のための伐採といった農業を行っていた。
警備は緩く、オーストラリア軍は負傷者・栄養失調者などを含む捕虜に、手厚い看護・介護を施した。
レクリエーション活動は、日本人は野球、相撲、麻雀などが自由に許されていた。

こうして遊びに興じる日本人捕虜たち。そこには十分な食事、十分すぎる自由があった」。
「捕虜に身をやつした自分がこの体たらくで良いのか。生き恥をさらしながらおめおめと生きていていいのか、それとも潔く自決すべきなのか…」
答えのない自問自答を繰り返す憲一だったが、数ヶ月前までの激戦が嘘のように、ただただのどかな時間が流れてゆくのだった。

そこにある日、黒木軍曹(阿部サダヲ)たちが新たに捕虜としてやって来る。
「生きて虜囚の辱を受けず、死して罪禍の汚名を残すこと勿れ」。……平和な日々のなかで憲一たちが忘れかけていた、あの「戦陣訓」を声高に叫ぶ黒木たち。
こうしてドラマは「このまま捕虜として収容所で生きることが許されるのか?」と自問を繰り返す憲一と、「生きて日本に帰ろうと決意」した二郎との意見対立が続く。
結局、強硬派の意見に押し切られ1944年8月(終戦約1年前)、ナイフとフォークを武器として反乱を起こすという筋書きであった。

事件発生当時、両国は次の理由からこの事件を秘密にしたという。
:オーストラリア政府は、カウラ事件を極秘情報として公にはしなかった。日本政府に日本兵捕虜の多数の死を知られた場合、日本によるオーストラリア兵捕虜への報復的危険性を考慮した結果であるという。私は、ヒューマニズムの立場から捕虜収容所におけるこの種の事件を不祥事、不名誉な事件として国際的に内密にしたかったのではなかろうか?と思う。
②:日本政府はカウラ事件の発生を確認していたが、日本兵捕虜の存在自体を否定しており、戦時中にこの事件を公表することはなかったという。

戦後この事件は少しずつ知られてゆく。私の知る2,3の情報を列記したい。195265
①:伊藤伸平著「旅大陸オーストラリア(1998 2.13初版)」(*4)。私は2003年、オーストラリア観光旅行の準備として、たまたまこの本を読み不幸で痛ましい事件を知る。
このブログのNo.4「もう一度あなたに会いたい(2005.04.16)」で、私はカウラ事件に触れて次のように書いた。
「第二次世界大戦の緒戦、日本軍は南方海域の前線基地からダーウイン、ブルーム、ニューキャッスルの各市街地を砲撃・爆撃して被害を与える。シドニー湾に侵入しては軍施設を攻撃する。こうして両国関係は決定的に悪化した。
他方、オーストラリア政府がカウラに建設した日本兵捕虜収容所では、『生きて虜囚の辱めを受けず…』の教えからか、捕虜将兵の大脱走事件が発生し、200余名が落命する。遺骨は今日、日本人戦没者墓地に埋葬されているという。胸痛むこれらの事実を、私はこの度初めて知った」。

②:『生きて虜囚の辱めを受けず カウラ第十二戦争捕虜収容所からの脱走』(*5)。4327165
2005年8月、NHKはオーストラリア人ジャーナリスト ハリー・ゴードン著「生きて虜囚の辱めを受けず」山田真美訳(1995年11月30日発行)をベースとしてドキュメンタリー番組を製作・放映したという。残念ながら私はそれを見ていない。

③:2,3年前の終戦記念日番組の中で私は、カウラ生還元兵士が重い口を開いて捕虜脱走事件の概要を語るのを聞いた記憶がある。

以上のほか、Webには今日カウラ事件関係の情報が溢れている。そんな状況の中で日本テレビは何故この時期に新しいドラマを放映したのだろうか?だが、このドラマの良さは事件を単なるドキュメントとして客観視するのではなく、自分がもしその現場に居合わせたとしたら、どんな決断をしたであろうか?と考えさせる点であろう。

事件後64年も経って我々はこの事件を詳細に知ることになる。
とはいいよう、「あの日、僕らの命はトイレットペーパーよりも軽かった」というドラマの表題自体、如何にも軽薄である。「トイレットペーパー」という表現は、捕虜収容所から脱走するかどうかの「賛否」を問う時にトイレットペーパーを用いたという事情があったというが、命をトイレットペーパにたとえることは不謹慎である(たとえるなら鴻毛)。
命の軽さが「あの日、僕らの命は」の表現も独善的である。戦争末期、制空権を無くした日本の空にはアメリカのグラマン戦闘機?が、B-29重爆撃機が飛来する。ブス、ブスと地面を突き刺す不気味な機銃掃射音や焼夷弾、爆弾の落下音がいまも耳に残る。敵機はさながら跳梁跋扈、死は我々の隣にあった。

ヒューマニズムには多くの定義、解釈があるが、最もオーソドックスには上記の「人道主義」である。
その他、ヒューマニズムには「人間性を称揚し、さまざまな束縛や抑圧による非人間的状態から人間の解放を目指す思想(デジタル大辞泉)」という解釈もある。
この伝でいえば、動物的欲望に発する生への執着、欲望、狡猾さ、醜悪さ、堕落などの全てが究極の人間性の発露であり、許容され開放されねばならないものになる。

収容所には虐待や処刑の不安はなく、食事も娯楽も十分に与えられ平穏無事の生活が続く。次第に人間的欲望が増大し、生への執着が強まる。人道的優遇は精神的開放にもつながり次第に環境に溺れて行く。己の不甲斐なさ、制御できない己への嫌悪感も高まる。こうして捕虜は恐らく「名誉をたたえる戦陣訓に走るか」と「生への執着にこだわるヒューマニズム」との狭間で苦悩することになる。

カウラ収容所に入所する際彼らは偽名を使ったという。本名で捕虜となることは名誉心、廉恥心から許されなかったのであろう。犠牲者の墓碑銘も当然のことながら偽名となったという。

ではカウラの事件は起こるべくして起こったと考えるべきだろうか?第二次世界大戦中の日本人捕虜数(*6)は、諸外国に比べて少なかったとはいえ約21万人に及ぶという。その彼らが戦陣訓に忠実に、名を惜しみ、恥を知って叛乱や脱走を試みればもっと多くの悲劇が生まれたであろう。だが現実には類似の事件を聞かない。恐らく特異、特例の事件と考えるべきであろう。
ではその特異性とは何か?オーストラリアという文明国の収容所で優遇を受けたこと、捕虜となった時期が友軍が苦戦していた戦時中であったことが大きい原因と思われる。

脱走事件で生き残ったカウラの元捕虜兵は終戦で無事帰国することが出来た。しかし彼らは自らの体験を心の中に封印して戦後の60数年を生きて来た。封印せざるを得なかった理由を推量するに、
共に叛乱を起こしながら生き残ったこと。
オーストラリアという文明国の収容所でヒューマニズムに徹した優遇を受けたこと。
③「名を惜しみ、恥を知る戦陣訓」と「生への執着にこだわるヒューマニズム」との狭間で苦悩したこと。
これら体験の真実を率直に告白できなかったことではなかったろうか。

なお、何故いまこのドラマが生まれたか?恐らく、事件の本質を語るべき元捕虜兵の高齢化問題があり、日本テレビ開局55年記念の「今」しかないとの判断ではなかろうか。
(2008.10.28)

参考
(*1)「戦陣訓」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%A6%E9%99%A3%E8%A8%93

(*2)「あの日、僕らの命はトイレットペーパーよりも軽かった」
http://www.ntv.co.jp/cowra/

(*3)カウラ事件
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%82%A6%E3%83%A9%E4%BA%8B%E4%BB%B6

(*4)伊藤伸平著「旅大陸オーストラリア」凱風社、1998 2.13 初版第一刷

(*5)「生きて虜囚の辱めを受けず」
NHKが放映したこのドキュメンタリーは書名「生きて虜囚の辱めを受けず」を元にしたもの。著者:オーストラリア人ジャーナリスト ハリー・ゴードン、訳者:山田真美、清流出版、発行日:1995.11.30
訳者山田真美氏が立案・制作協力したドキュメンタリー番組「カウラの大脱走」は
2005年8月4日(木)20:00~21:50 NHKハイビジョン(110分完全版)で放送、
同8月12日(金)22:10~23:00  NHKBS-1(50分ダイジェスト版)放送、
同9月4日(日)17:00~17:54 NHK総合(50分ダイジェスト版)で放送という。

(*6)第二次世界大戦中の日本人捕虜数
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%8D%95%E8%99%9C

第二次世界大戦主要国別捕虜数        Photo
ドイツ   9,451,000人
フランス  5,893,000人
イタリア  4,906,000人
イギリス  1,811,000人
ポーランド  780,000人
ユーゴスラビア  682,000人
ベルギー  590,000人
フランス植民地  525,000人
オーストラリア  480,000人
アメリカ合衆国  477,000人
オランダ  289,000人
ソビエト連邦  215,000人
日本      208,000人

(*7)カウラ地図
オーストラリア発見から借用
http://www.discover.australia.or.jp/chapter04/002.html

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No.78 : DVD-Rへの書き込みが出来ない

Cap 大量の画像などをDVDに書き込んで保存したいと希望するなら、「パソコン購入時にドライブがその用途に対応しているかどうかを十分に検討しなければならない」と、私の失敗から申し上げたい。但しVista PCでは、CD-R/RWやDVD-R/RWにデータを書き込むことが簡単になったそうであるから、このお節介は無用かも知れない。

10年以上もパソコンとつきあっているので大抵のことは分かっていると思っていたのが間違いだった。今にして思えば3年前、DELLのノートInspiron-4000、(Me)からInspiron-1150、(XP)に買い換えた際、光学ドライブ(CDドライブ)の機種選定を間違えたのだ。Me時代、このCDドライブはCD-ROMからソフトをインストールするとか、自分で作成した文書や画像をCDに書き込んで保存することに利用してなにも問題がなかったのでつい同種のドライブを選択していた。

しかし最近、デジカメ写真を月間7~8百枚も撮っていると、内蔵のハードディスク(40GB-HDD)では、残量がうっかりすると1GBを割ってしまい色々と不都合が出るようになった。どんな写真を撮っているのか?旅行の写真、花の写真、地域自治会の各種行事の広報写真などである。

やむを得ず私はパソコンに写真が貯まってくると
外付けの250GBのHDDに緊急避難させている。幸い私自身、まだHDDでトラブルを経験したことはない。しかしHDDは安心できる代物ではないと聞いておりこれだけでは不安が残る。

そこでCD-Rにも旅行、行事などテーマ毎に分類して書き込み保存し、HDD保存のリスクを分散している。(google「Picasa」の「ギフトCD」の作り方ソフトを用いてCD化する。勿論このとき画像の濃度、色調、シャープさ、画像の傾きなどをこのPicasaで修正処理する。しかし、CD-Rも永久保存できるという保証はないという。

今回第3の手段としてDVD-Rを検討した理由はCD-Rに比べてその容量が大きいという魅力である。(4.7GB、700MB程度のCD-Rの約7倍の容量)

ところで私は最近まで、自分のパソコンでDVD-Rへの書き込みが出来ないことに気付かなかった。日頃デジカメ画像をCDに書き込むことは簡単に出来るし、DVD版の映画も見られたからである。

DVD-Rへの書き込みをしようと2週間ほど前私はDVDメディアを購入して挑戦したが何度試みてもうまく行かなかった。DVDメディアに5種類も在ることを知らず、CDの一般的知識からDVD-Rを購入したが、この選定自体に大きい間違いは無かったようだ。

DVDメディアを購入した電気量販店で、少し詳しい係員からやっと聞き出したことは「CDドライブの側面にどんな表示がありますか?DVDへの書き込みが出来るドライブではRewritableなどの表示がありますよ」と。やっと書き込みの出来るドライブと出来ないドライブのあることに気付く。

帰宅してパソコンを調べてみると「DVD ROM」とあるだけである。read-only memory即ち、DVDの読み出しは出来る。しかしこのことは書き込みは出来ないことを意味しているようだ。

コントロールパネルからシステム、ハードウエアー、デバイスマネージャー、と開き、[+DVD/CD-ROMドライブ]を。更に開くと[-PHILIPS CDRW/DVD CDD5263]と読めた。

dellコンピュータは購入時に仕様を自分好みに注文、いわゆるカスタマイズができる。手許の購入時の書面で確かめると、私は固定式の光学ドライブを
DVD/CD-RWコンポドライブ
◎DVD+/-RWドライブ(DVD+R2層書き込み対応)
の中から前者を撰んでいた。私はここで選択を誤っていた。

このフィリップ社製ドライブがどんな性能かをdellのサイトで調べてみた。(*1)
説明によれば「Philips CDD5263 は、… CD-RW/DVD-ROM ドライブです。このドライブは CD-R/RW ディスクの記述が可能で、標準 DVD-ROM ドライブとしても使用できます…」とある。DVDに書き込み出来るとは書いてなかった。

更にインターネットで調べてみると意外に私のように「書き込めない」というトラブルと質問に出遭う。たまたま私のパソコンと同機種を持つ人の質問(*2)がありその回答に
「PHILIPS CDRW/DVD CDD5263はDVD-ROMですので、DVDに書き込みは出きません。USBかi-Linkの外付けDVD-Rを購入しないと無理です。
…最近この手の質問が多いですねぇ。自分が使っているPCのスペックや仕様…最低、CPUのクロック数、メモリーの搭載量、HDDの容量、光学ドライブの種類位は把握しておいてください」とあり、この懺悔となった次第である。

パソコンに詳しい先輩は、大事な画像やデーターは最も信頼性のあるMO「MOディスク(magnetooptic disc [disk]光磁気ディスク、エムオー)」への保存を推奨する。(*3)
しかし大分以前に購入した私のMOドライブ(230MB)は容量が小さく、デジカメ全盛時代の今日では役に立たない。やむを得ず当面、DVDを活用しようかと考えた私だが、さて、DVD-Rの保存信頼性は如何なものであろうか。「永久保存するならDVD-R」との表示(*4)もあるが…。(2008.06.11)

参考:
(*1)http://support.dell.com/support/edocs/storage/P77261/ja/intro.htm 
   Philips CDD5263 スリム CD-RW/DVD-ROM ドライブ ユーザーガイド
(*2)http://okwave.jp/qa1532503.html?ans_count_asc=1
   DVD/CD-RWへの書き込みが出来ません
(*3)http://www.mo-forum.gr.jp/japanese/MO/reliable.html
   なぜMOの信頼性は高いのか?
(*4)http://www.webby.co.jp/dvd/dvd_tokucho.html
      DVD基礎知識

昨日6月10日は「時の記念日」、昨日も我が家の「時計草」が咲きました。 

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No.77:泰山木の花が咲き始めた

今朝我が家の泰山木の開花に気がつき慌ててデジカメをPhoto 持ち出し、1,2枚下から見上げて撮ったが、僅かに白い花びらが見えるだけだった。この後二階から写したのが次ぎの写真である。我が家で一番の高木で4,5メートルはあろうか。門から玄関までの狭い場所に植えているので、反り返って見上げても開花に気付かないことが多い。今朝は落ちた花びらを見てやっと気付いたというところ。何とも気の毒な木である。

今日も例のごとく、ウィキペディアや皆さんのブログ(*1,*2、)をお借りしてこのブログを纏めた。(2008.06.06)

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』                                                            
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BF%E3%82%A4%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%83%9C%E3%82%AF 
によれば、このタイサンボクは、                             Photo_2
分類
界  :  植物界 Plantae
門  :  被子植物門 Magnoliophyta
綱  :  双子葉植物綱 Magnoliopsida
目  :  モクレン目 Magnoliales
科  :  モクレン科 Magnoliaceae
属  :  モクレン属 Magnolia
種  :  タイサンボク M. grandiflora
学名  :Magnolia grandiflora
和名    :タイサンボク
英名    :  Southern magnolia

タイサンボク(泰山木、大山木、学名:Magnolia grandiflora)とはモクレン科の常緑高木で、特徴として
北米中南部原産。花期は5~7月頃。20m以上にもなる高木であるので家庭での栽培には向かない。葉の表面には光沢があり、裏面は毛は密生しており金色に見える。よく、公園樹として使われる。
近縁種にヒメタイサンボク(学名M. virginiana)があり、Photo_3

こちらは落葉小高木とあり、我が家の木はこの近縁種かも知れない。

*1 http://www.ne.jp/asahi/osaka/100ju/index.htm 大阪百樹中の「収録樹木名検索:タ行、泰山木」

*2 http://blog.goo.ne.jp/yoshio_64/e/8aa5ab4923b759e00676c9397c723847
    「定年後の人生を幸せに」

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No.76:今年も「くじゃくサボテン」が咲き始めた

我が家の植木鉢のくじゃくサボテンが今年は7個ものSa蕾 を付けた。5月末から次々に咲き始め、1日に2輪咲いた日もある。その豪華さ、妖艶さにうっとりと見とれるが、1,2日で萎れてしまう。一期一会、それ故にしっかりと眺め、カメラにも収めた。

ところでこの花、誰に見せようとこの美しい花を咲かせているのだろうか?開花期の我が家では鉢を室内に入れるので、「箱入り娘」になっており蝶も訪れない。博学の人のブログ(*1)に、「メキシコ地方原産」と書いてある。メキシコの屋外では蝶が訪れてくれているだろうか?次のブログを引用させて頂く。(2008.06.03)

(*1) 孔雀サボテン(くじゃくサボテン)         Sb
http://www.hana300.com/kujaku.html          
・サボテン科。                      
・学名  Epiphyllum hybrid            
          Epiphyllum : エピフィラム属
          hybrid     : 雑種の       
  Epiphyllum は、ギリシャ語の「epi(上)+phyllon(葉)」が語源。
  花が葉の上の方で咲くことに由来。   
  学名 E へ

・メキシコ地方原産。                
・見事な赤と白の花!                            Sc
   花びらが長い。                     
・サボテンらしく枝の先端から咲く。             
・鮮やかな大輪の花を咲かせるのが、孔雀の羽根の色柄を思わせるところから、この名   前になった。          
・いろんな品種がある。               

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No.75:あなたの呼び名は「昼咲き桃色月見草」ですか?「琉球月見草」ですか?

Sa この可憐な花を母は「琉球月見草」と呼んでいた。ここ1週間ほど毎日咲き続けている。「昼咲き桃色月見草」という一般名は、10数年前近くの図書館で見つけた。以後私はそう呼んで来た。

今日ではこの花に関心を持つ多くの皆さんのサイトを容易に見つけることが出来るし、植物の学名から通称まで、皆さんの蘊蓄に接することが出来る。我が家のこの花は間違いなく昼咲く桃色の月見草である。

しかし、このなよなよとした立ち姿の淡いピンク色の花は「琉球月見草」と呼ぶに相応しく、「昼咲き桃色月見草」は正確な表現ではあっても、この花の持つ可憐さも色香も感じられない。 Sb                         

では「琉球月見草」という名前はどの程度知られているであろうか?この名前でもインターネットで同じ花が沢山確認できる。波照間島(沖縄県八重山郡竹富町波照間)でも見たというサイトもあり、如何にもこの名前の出自を裏付けるように感じられるが、北米産とあり、どこから琉球がで出てきたものか?( 2008.05.28)

文献を一つだけ引用させて頂 く。  http://www.kagiken.co.jp/new/kojimachi/hana-hiruzaki-tsukimisou_large.html                                                                                                                  Scmo

ヒルザキツキミソウ(昼咲き月見草) は、アカバナ科マツイグサ属の耐寒性多年草で、北米からの帰化植物で野生化しています。葉は披針形で、葉縁に波状の鋸歯があり、互生して付きます。ツキミソウ(月見草)やマツヨイグサ(松宵草)と同じグループですが、昼間に開花するのでこの名があります。マツヨイグサ属には他に、ペレンニスや、フルティコーサがあります。                                                               
一般名:ヒルザキツキミソウ(昼咲き月見草)
学名:Oenothera speciosa(オエノセラ・スペキオサ)
別名:ヒルザキモモイロツキミソウ(昼咲桃色月見草)、
   オエノセラ・スペキオサ(Oenothera speciosa)
科属名:アカバナ科マツイグサ属
原産地:北米
草丈:30~50cm、 花径:4~5cm、 花色:桃 開花期:5~7月

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No.74:今花盛り…我が家の「じゃこうにんどう」(花シリーズ-1)

S1 我が家で母の代から「じゃこうにんどう(麝香忍冬)」と呼んで来たこの木、ネットフェンスの一部を飾ってもう30年程になる。毎年この時期(5月中旬)に、ほのかに香る白、黄の花を咲かせる。蕾の深紅色を含めると3色、清楚さの中に賑やかさもある。先日ふと私の呼び名はこの花の本名だろうか?私のような恍惚世代でも、もはや本物の香料「麝香」の香りを知らない。あるいは現代語的通称で呼ばれているかも知れない。それに我が家の木は血統書?付きというような名木でもないので、強引に私の主張を通そうというのでもない。

S3S2_3
我が家では例年は軽く剪定(秋)するだけだが、5年に一度位は剪定時にかなりきつい刈り込みを行っているが、折角冬の寒さに耐え(忍)て呉れているのに、これは迷惑だろうか?

というわけで、「本人」に”ブログデビュー”して貰うことにした。「私、じゃこうにんどうでしょうか?」と言う筈である。

S4以下皆さんの蘊蓄(うんちく)を引用させて頂き、S5私の結論は保留したい。(2008.05.23)

                                

参考資料:
1*香りの良い花は好きですか:じゃこうにんどう(2006年7月 4日 (火)号)
http://hanano-kaori.cocolog-nifty.com/blog/cat1398495/index.html
写真の花は、「じゃこうにんどう」という名前で、横浜の露店で買いました。特別に変わったところは無いのですが、香りは、そこらに生えているスイカズラより良い気がします。
「にんどう」と言う名前はスイカズラの別名で、忍冬と書き、冬でも落葉しない葉にちなみ、中国で言われる名前だとか。ちなみにスイカズラは吸蔓で、英語名のHoney Suckleと同様に、花の奥にたまる蜜を吸って子供が遊ぶことにちなんだ名前です。

この花は北半球に色々種類があり、XXハニーサックルとか、ハニーサックルxxとか、結構にぎやかです。このうち日本のスイカズラは重要な原種で、素晴らしい花の芳香と、時には疎まれる丈夫さで、数々の園芸種を生んでいます。

スイカズラの香りは、甘さの中に、何か郷愁をさそるような香りが混じります。この郷愁を誘う部分に私は「極楽浄土」を連想します。

2*匂い忍冬
http://aoki2.si.gunma-u.ac.jp/BotanicalGarden/HTMLs/honeysuckle.html

3*デジカメ写真
http://homepage1.nifty.com/s-ozeki/nindou.htm

4*私の花図鑑
http://www.mitomori.co.jp/hanazukan/hanazukan2.7.10.html
 
5*スイカズラ
http://www9.ocn.ne.jp/~sousabro/newpage100103.html
「すいかずら(忍冬)別名にんどう日本、中国、朝鮮、原産。スイカズラ科の常緑蔓性木本。山野に自生、暖地では常緑。葉は楕円形、全株に褐色の細軟毛を密生。初夏、芳香のある白色または淡紅色の唇形花を開き、のち黄色に変わる。花筒の底部にある蜜腺から蜜を出す。二個相接してやや瓢箪形をした黒色の液果を結ぶ。茎・葉を乾かしたものは生薬の忍冬(にんどう)で、利尿・健胃・解熱薬、花を乾かして瘡腫の洗浄用とする。葉が冬でもしぼまないので、忍冬の名がある。金銀花。(百科事典)」
6*スイカズラ(スイカズラ科)
http://asobotei.cool.ne.jp/03-5gatu/26suikazura.htm
解説:朝日「花おりおり」から:「吸葛」、「忍冬」(にんどう)花の基部に蜜がたまり、吸うと甘いことからこの名がついた。花は白から淡紅色、そして受粉すると黄色へと変化する。その甘い香りは夜にはさらに強まるという。
漢名の忍冬は冬の常緑から。唐草模様はそのつるのからみと花をデザイン化したもの。法隆寺から白鳳時代のみごとな軒瓦が出土、「忍冬唐草文宇瓦」と名付けられているという。
7*すいかずら(忍冬・吸葛・金銀花)
http://www7a.biglobe.ne.jp/~nonoha/no-sum@s02.html
解説引用:スイカズラは、英名 honeysuckle ハニーサックル、漢名・忍冬(にんどう)などとしてよく知られています。
 道ばた、林の縁などの、低木にからまって生えるスイカズラ科のつる性常緑低木です(暖地)。花を摘んで、その付け根を吸うと蜜が甘く口中に広がり、昔の子どもたちはこれを好んで吸いました。
 茎葉を「忍冬」と呼び、花を「金銀花(きんぎんか)」と呼んで、漢方薬の素材とし、花を酒に浸して「忍冬酒」として用いたといわれます。花期は6~7月。初夏を代表する花です。名の由来は、字義通り吸う葛(かずら)です。

8*花@散歩 スイカズラ すいかずら科 つる性、半常緑低木 
http://www.tssplaza.co.jp/hanasanpo/suikazura.htm
                                       

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73:花との出逢い 一期一会

我が家の小さな庭にもいま色々の春の花が咲き競っている。A_2海棠(かいどう)、花蘇芳(はなすおう)、利休梅(りきゅうばい)、突き抜き忍どう、つる桔梗などなど。

私はいそいそとデジカメを持ち出して今日の出逢いを喜びながらその瞬間の美しさを捕らえる。    それらの花の中には、今日はまだ早すぎるよ。明日写して!と訴えてくる花もある。「私の一番美しい瞬間を捕らえて欲しい」と。いや、その気持ちはこちらにもある。こうして私は毎日花と対話しているところだ。B_2

デジカメ時代になって有り難いことは、撮影結果をすぐに確認でき、撮り直すことも出来ることだ。また、Webの世界にはフリーの優れた画像処理ソフトもあり、画像処理で生き返る作品もある。私など、それらソフトの恩恵に浴するばかりで何ら社会還元出来るものがないが、ブログやホームページにのせた作品がもし、人に好感を与えることが出来ていればそれらソフトの貢献度が大きいものと評価して頂きたい。C_2

私がお世話になっている画像処理の主なものは
水平線修正(PICASA)、
ピント修正(PICASA、BTJ3)、
色修正(Irfan View、BTJ3)、
画像縮小(縮専)、
フォーマット変更(BTJ3)、
文字入れ(JTRIM)それに
ほこり、疵修正(PIXIA)                   D
などである。それぞれの優れた機能を使いこなしているわけではなく、自己流のつまみ食い状態であり、ソフト作者にはかえって失礼しているかも知れないが、一応列記してお礼に代える。(2008.04.15)
E       

                      F                 

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No.72「千の風になって」異論

私はこの「千の風になって」の原詩が朝日新聞のScastle天声人語欄で紹介された(2003年8月28日 、日本語訳)とき、なるほどあの世に旅立った人からの「心優しいメッセージ」というスタイルの詩があったのかと感心した。
本人にとって最も厳粛な死ではあっても他人を悲しみの渦の中に引きずり込んではいけないと。そういった優しさの精一杯の心遣いがこの詩から読み取れる。
私もいつか冥土に旅経つ日が来る。子や孫など肉親は悲しんでお別れを言ってくれるだろう。しかしやがて「お祖父ちゃんはあの詩のように私達の身近に『千の風になって』優しく、温かく見守ってくれているんだ」と、悲しみを想い出に変えて生きて呉れるに違いない。何せ私は後期高齢者だから。だがそう言って貰うためには先ずこの詩を彼らに送っておかねばなるまい。 Sobp

他方、友人や知人は余ほどの事情が無い限り我が事のようには悲しんで呉れないだろうし、また悲しませてはならない。ならば友人知人にはこの詩を私のメッセージとして送っておこうか?いや、もうその必要はない。あの新井満さん、秋川雅史さんの朗々たるテナーで大方の人達は知っているはずだ。そう考えれば逝く方は気楽になる。

だが、この詩だけが優れているわけではない。死者と生者という立場は異なるが「心遣い」という視点から見れば、ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)が「Japanese smaile」(日本人の微笑み)として紹介しているお話もまた、古き良き時代の日本人の奥ゆかし心遣いである。私はこの物語を学校で学んだ。
ハーンが宿泊した宿のお手伝いさんは主人の死を伝えてつい落涙したあと、慌てて袂(たもと)で涙を拭い、「お恥ずかしいところをお見せしました」と丁重に詫びて微笑したという。(*1)
己の不運や不幸を相手に感じさせないようにとの心遣いが「微笑み」となったものであろうが彼女のしぐさを、ハーンは日本人の美徳として受け取ったのだ。
こう見てくれば、相手に悲哀感や憐憫の情を起こさせないようにという心遣いは人類共通、世界共通の感情であろう。

しかし身近な肉親を亡くし悲嘆のどん底にある人にこの詩や歌曲が何ほどの慰めや癒しを与えうるものであろうか?まだまだ未来のあった肉親の死は、とてもこのような、美し過ぎる詩や歌曲で慰められるものではない。ときが悲しみの日々の記憶を希薄化するとしても長い長い時日を要するのだ。
泣きたい人は心行くまで泣くが良い。涙枯れた時、漸く諦念の境地に達する。まして当初は魂が風になって彷徨うことを許す心境にはならない。己の手で埋葬した墓地こそが魂の住み家でもある。だからそこに会いに行くのだ。

今日、なるほど葬儀の形式が多様化し水葬も風葬も生まれつつある。だがそれはあくまで死者の日頃の願望を叶えてあげるものであり、遺族や他人が勝手に解釈したり脚色してはなるまい。そのためには生前から己の死後の在り方への希望を家族にしっかり伝えておく事が必要であろう。
要は、この詩や歌曲をどういう立場の人に送るかで作品の評価は変わる。(2008.04.02)

          新井満さんの翻訳詩(*2)
  私のお墓の前で 泣かないでください
  そこに私はいません 眠ってなんかいません
  千の風に 千の風になって
  あの大きな空を 吹きわたっています

  秋には光になって 畑にふりそそぐ
  冬はダイヤのように きらめく雪になる
  朝は鳥になって あなたを目覚めさせる
  夜は星になって あなたを見守る

  私のお墓の前で 泣かないでください
  そこに私はいません 死んでなんかいません
  千の風に 千の風になって
  あの大きな空を 吹きわたっています          

(*1) 小泉八雲著『日本の面影』(「明治日本の面影」)                 http://www.geocities.jp/michio_nozawa/episode/episode86.html

(*2) 新井満、千の風になって
http://www.twin.ne.jp/~m_nacht/1000wind/1000wind.html

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No.71後期高齢者とは何だ?火災警報機とは何だ?

政府が決めて世間に広く用いられる「名称」は、誤解や不快感を与えないように慎重に決めて欲しいもの。                                   Slabisenri_cap
(1)後期高齢者
この四月から私は非情にも「後期高齢者」と呼ばれることになった。75歳以上が全員この制度に移行する。ちなみに65歳から74歳までが「前期高齢者」である。
Webを開くとこの制度への疑問がかなり見られるが、私はこの制度の善し悪しを論じようというのではない。「もうお前さんは人生最後のステージ、後がない人間だ」と聞こえるこの言葉に苦情を言っているのだ。こんな言葉を作った犯人は誰だ?高齢者への理解や配慮があればこんな名前は付けなかっただろう。
では「どんな名前をお好みか?」と問われれば私とて名案はないが例えば10年毎に第1期高齢者、第2期高齢者、第3期高齢者…などと命名すれば健康への向上心も希望も湧き、医療関係者にも現在の年令ステージが一目瞭然ではないか?

ところで、最近我が家の近くにLABI千里中央というヤマダ電機の豪華な店舗がオープンした。1週間ほど経った3月13日、私は混雑の落ち着き待って覗いてみた。「後期高齢者」だって好奇心は若いものに負けないのだ。
添付した写真の位置で、30分ほど人の流れを観察する。平日ということもあって学生や若者は少なく、代わりに幼児連れの若い主婦、四月から「前期高齢者」と呼ばれるであろう人達、それに我々のような「後期高齢者」も結構目立つた。杖を突いた人も、車椅子の人達も新しいものへの好奇心を持って店に吸い込まれてゆく。
私が目を見張ったのは黒のスーツをぱりっと着こなした若いビジネスマンが店に入ってゆく姿だった。メーカーのセールスマンが新店舗への挨拶を兼ねて売れ行きを視察するのであろうか。

広い店内はさほど混んでいなかったが各フロアーに溢れた、それでいて整然と配列された電機製品群に私はただただ感心して見回った。だがここはメーカー同士の鎬を削る血なまぐさい修羅場でもあるのだ。客足や売り上げを気にして一喜一憂するのは店側だけではあるまい。メーカーセールスマン同士の目に見えぬ火花を見る思いであった。
数日後ヨドバシカメラ(梅田)に立ち寄った私はここでも黒のスーツをぱりっと着こなした若い人達に出遭う。彼らは胸に「入店許可証」を下げていた。先日の私の推測は的中したようだ。

(2)火災警報器                                       Ssenribairincap
ウイキペディアの「火災報知器」の項には「2006年6月1日に改正消防法が施行され、新築住宅の寝室や階段などに火災報知器火災警報器)の設置が義務付けられ、既存の住宅についても、遅くとも平成23(2011年)5月中までの設置が義務化された」とある。私は数年前この「火災警報器」設置義務を聞いたとき「火災警報器」という表現に引っかかった。これはおかしいと。このブログを書くにあたり、色々調べて見て、ますますその思いを深くする。

従来この種の製品は「火災報知器」と呼ばれ、Webには「社団法人 日本火災報知機工業会」という組織もあることが分かった。同一目的の商品に何故今回は「火災警報機」と命名したのか?Ssenribairin2_cap
結局、この文章の冒頭のように現在は火災報知器(火災警報器)というように言い換えて二重に表現されているようだ。ただ、この種機器のメーカーだけが忠実に政府通達の通り「火災警報器」を採用している。

私は、もし家の中で火災の火種が発生すればもはや「警報」を発信する段階ではなく、当然「報知」をしなければならないと言いたいのだ。警報には予告的ニュアンス、即ち時間的余裕が感じられる。
辞書の「報知」には、知らせること。(例えば)「火災…器」とある。他方「警報」には「暴風・大雨・洪水・火事・空襲などの災害や危険の迫ったことを告げ、警戒を呼びかける知らせ」とある。

我々世代は戦時中に米軍爆撃機による空襲の体験がある。敵機飛来の時間的余裕に応じて「警戒警報」であり「空襲警報」であった。時にいきなり空襲もあったそうだがそれは例外的ミスである。そういう体験の知恵でいえば自宅の「火災」に「警報」はない。
ここは何故「火災警報器」となったものか教えて貰いたいところである。(2008.03.22)

社団法人 日本火災報知機工業会:  http://www.kaho.or.jp/
ウイキペディア「火災報知器」:
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%81%AB%E7%81%BD%E5%A0%B1%E7%9F%A5%E5%99%A8

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No.70:「統合学」とは何だ?

625590 日曜日や休日に家にいると、時々キリスト教信者の訪問を受ける。インターホン越しに「私は近所の○○ですがちょっとお邪魔します」とくる。

ついで例えば「最近の青少年の非行やいじめについてどのようにお考えですか?あるいは世界平和のために今何かしたいと思いませんか?というような至極真面目な切り口で問いかけて来る。暇があれば聞いてやってもよいと思わせるような話題だが、私が「(あなたは)キリスト教の方ですか?」と問うと「ハイ」という返事。「いや、折角ですが私は仏教でしっかりやっていますから」と断る。それでも粘って勧誘してくる人には「私はもう高齢ですから宗旨変え出来ません!」で交渉は終わる。”しっかり”と言っても仏教に帰依しているわけではない。断るための常套語である。心のどこかに「葬式仏教*1」を甘受しているのだ。

ところで、我が家の菩提寺は急行列車で3時間ほどかかる遠隔地にあるので日頃は近くの日蓮宗の寺でお世話になっている。その新年祈祷会に参加した時のことだ。本堂に置いてあった新聞(日蓮宗新聞平成20年1月10日号)に「統合学*2」という言葉が躍っていた。
「近代文明の末期症状的今日の世の乱れは『哲学と科学の分離思考がもたらしたもの』であり、この『切断の原理』が物理、生物、人間科学を極限の孤立にまで追いつめてしまった。…この近代文明の欠点を補完する運動が急務であり、統合学(専門分野を横断的に貫き、文字通り異分野を統合の視点で捉えること)が混乱の解決に貢献すると期待される」というような主旨の記事であった。080216jpg

2007.10.29、現代社会の混迷を救済する複雑系・統合科学の樹立を目指した日独協力による「統合学Integrative Wissenschaft」学会設立記念の、「シンポジウム」がボンで開催されたという。
極めて難解な記事であり拾い読みした程度だが、現実を考えると学会を設立してスタートするというやり方に私はいささか迂遠すぎるのではないか?と感じた。しかしこの取り組みは、「葬式仏教」などと言われる日本仏教から脱却することに寄与するであろうと評価した。

ただ、この種の活動は今初めて聞く概念ではない。1965年頃、よく耳にした「インターディシプリナリーinterdisciplinary」は「学際的な、異なった学問分野にまたがる、(学問の)総合の、各種学問分野の合同」などの意味だが、今日の統合学はこの意識と同一のものと私は解釈した。
当時の問題意識は組織や学問領域が、発展に伴い細分化され過ぎ全体を見失うというような問題であった。経済発展期の真っ直中にあった当時、会社の組織で言えば、部は1課、2課、3課…といういように拡大と同時に細分化され、もとの「部」が持つ遺伝子が各課に伝わらない程に課は独自の発展を遂げ、同時に課と課は相互に接点をなくした異質の組織に変質して行くなどの弊害が発生した。技術領域も細分化により問題の本質を見失うという問題が発生し、ここに境界領域をまたがる総合的視点からの検討が必要と提言された。
企業では組織変えでこの危機を克服したが、技術領域においては必ずしもこの概念は定着しなかったように思われる。インターディシプリナリーと言う概念はいつの間にか消滅していた。
(この考え方の先駆的論文は中根千恵東京大学教授の「タテ社会の人間関係*3」ではなかったろうか?記憶が定かではないが、日本社会の縦の強さとその弊害を解析した論文であったように思う。この本の心髄に当たると思われるエピソードを僅かな記憶から紹介しよう。
イギリス留学中お世話になったイギリス人に、「このご厚意に私はどのようにしてお返しできるか心が痛みますと挨拶をしたところ、『それは簡単ですよ。あなたがどなたか困っている人を見かけたとき、私があなたにして上げたような親切をして上げなさい』と言われ、今まで発想しなかったこの言葉にはっとした」とあった。)

さて寺の新年祈祷会に集まって来た人達はかなりの高齢、善男善女でもあった。お上人の説教は、まず「六方礼拝」の大切さを説く。東は家族同士の親愛、西は夫婦の敬愛、南は上下の尊敬、北は友人・知人の信頼、天はご加護への恭敬、地は全ての人に対する互恵と説く。その内容は生者に対するもの。その大方は「修身(小学校道徳教科書)」や「儒学」で学んで来た徳目であり、理解できるというよりも既に理解している。とはいえ、その知識は子や孫に教え伝えて人生の知恵、生きる力にして貰わねばならぬ。問題は受け入れ側の素地・体勢が今日全く崩壊しており素直に受け入れては呉れないことである。

ではどのようにして改めるか?要点をいえば、小学校で徳目をしっかり教え込むことだ。前・安倍内閣時代の平成18年10月10日内閣に「教育再生会議」が設置され、学校教育に「道徳教育」を加えることも検討されたように記憶している。私もそれが最善の施策と考えるものの一人である。その委員(有識者*4)の中に宗教関係者が見当たらないのは何故だろうか?

新渡戸稲造著「武士道」(1899.12著*5)の序文に「10年ほど前、ベルギーの法政学の大家故・ド・ラヴェレー氏から、日本の学校においては、宗教教育はなされていないのですか?とたずねられ、ハイと答えたところ、宗教がない!ではどうして道徳教育を授けるのですか?とくり返した氏の言葉に答えられず(当時)、後日自分の善悪の判断は「武士道」であったことを思い出してこの本を書いた」とある。

私は「武士道精神」が宗教と同格とは思わないが、武士道精神は例の「葉隠」が「葉隠論語」とも呼ばれるように儒学を下敷きにしていることは予想される。従来から日本人が善悪判断の基準・規範として教わってきた徳目は儒学、宗教あるいは修身にあった。

冒頭のキリスト教信者の行動は、それが入信の勧誘であるとしてもなかなか意欲的、積極的である。話題は「生者」に密着している。このように諸外国においては宗教が血や肉となって人生の行動規範、生活信条、行動力そのものになっているように思われる。

それに比べて我が国の宗教(ここでは仏教)は日常生活の中に生きていない。その理由は日本人の宗教的ノンポリにあると思われる。穏やかな日本列島には日常の生活に一神教的強力、強大な指導者を必要としない。こうして宗教への信頼、期待、執着のない人間が生まれたものであろう。
しかしそれでは済まされまい。宗教は生・死の問題の他に道徳の規準・規範を教えている。「宗教」なしに、道徳の規準・規範を何に求めるというのか?という思いは故・ド・ラヴェレー氏に同じである。

この意味では難しい統合学に走る前に宗教家として子ども達に先ず徳目をしっかり教え込む方法を検討すべきではなかろうか。老い先短い老人や、既に己をコントロール出来る熟年者を主たるお客として、葬式仏教などと呼ばれていては仏教の将来に明るさはない。
キリスト教とて宗教的ノンポリの日本では信者数を拡大することに苦労は多いものと思われるが、キリスト教では葬儀、結婚式の他に、日曜礼拝、子供会などの各種集会、ボランティア活動など子供や学生に魅力的活動を行っており、何よりも「生身の人間」を対象としているという印象に強みがあろう。仏教はその活動を見習うべきである
。(2008.02.27)

*1 葬式仏教
   http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%91%AC%E5%BC%8F%E4%BB%8F%E6%95%99
   出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
*2 統合学会:日蓮宗新聞:平成20年(2008)1月10日号
提唱者:宗教法人妙見閣寺代表役員、非営利法人ドイツ大聖恩寺理事長、全日本経営   人間学協会理事長、国際永久平和祈念祭典総監督、総合学術国際研究所理事長竹内日祥
*3元東大教授中根千恵「タテ社会の人間関係」講談社現代新書1967
*4教育再生会議有識者
  http://www.kantei.go.jp/jp/singi/kyouiku/kousei.html
*5新渡戸稲造「武士道」講談社インターナショナル㈱1998.6.18第1刷           

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No.69「私の愛国心」

山田久美著「ボストンに恋して」を、私はブログNo.41(06.02.02)で69a 紹介した。この本を読んで以来、単に休日として過ぎてしまうことの多かった私の祝日を反省し、国旗だけは忘れずに掲げ、もっと有意義に過ごそうと努力している。

今日2月11日は「建国記念の日」、勿論日の丸の旗を掲げた。我々世代では、小学校の教育のせいもあるが、日の丸の旗は勿論日本の国旗であり、国旗を掲げることは愛国心の表明でもある。

戦後の復興・建設の時代に生き、その時代の繁栄に寄与したという誇りのある我々世代にとっては、日の丸の旗は我が国発展の「一里塚」に立てて来た努力賞のようなものでもある。                                   69b_2

戦後日本の復興は、焼け跡の廃墟の中から衣・食・住の全てを一から築き上げることで始まった。私はその時代を、表現を許されるなら「後進国時代」と呼ぼう。この時代、ささやかな目標を達成した時に、我々はその一里塚に社旗とともに日の丸の旗を立てて喜び合った。

その後我が国の復興は産業構造的に見れば、石炭、繊維、肥料、セメント、砂糖、紙・パルプ、造船、橋梁・道路・ビル・住宅建設、石油化学、白物家電などに進展・変遷した。製品は高度化・複合化して、経済的・技術的先進国への道をばく進する。「先進国に追いつけ追い越せ」を合い言葉にして努力した「発展途上国」時代。我が国は日の丸の旗を世界のあちらこちらに立てて来た。いや相手企業も日の丸の旗を掲げて敬意と歓迎の意を表する。当然愛国心をくすぐられる事態でもあった。

こうしてその喜びが更に自信となり、国威のグローバル化が愛国心を育ててゆく。 しかし自動車、新幹線、航空機、制御技術、電子部品、通信機器、情報機器へと、重厚長大産業から軽薄短小と言われた方向・分野に発展し、世界を相手とした経済活動へと拡大されると共に、剥き出しの愛国心は次第に洗練され、影を潜めていったように感じられる。

今日の世界を見ても判ることだが、後進国、発展途上国時代が最も愛国心の旺盛な時期であり、国旗や国歌に対する尊敬も敬愛も育つ。技術、経済分野において追われる身となっている日本でありながら、生活の高度化からハングリー精神はなくなっている。こういう環境では愛国は育ち難いとも考えられるが果たしてそういう次元の問題であろうか?

私はこのブログのNo.20(05.06.27)に清水幾太郎先生の著書「愛国心」を要約して示した。その最後にこうあった。

「…国家が神聖な祖国として燃え上がるためには、内部の問題を民主主義的方法によって解決して行く必要が生まれ、民主主義によって『一つの祖国であることが出来るように』と変遷する。民族のメンバーが言語、文化、習慣を共有するとはいえ、なお、思想、信仰、利害などに多くの差異と対立とがある。民主主義は各人が合理的な理解能力を持つことを前提に、相反する思想、信仰、利害であっても自由な討議を通じて了解と一致に導く。こうして、近代の民主主義がエスノセントリズム(民族中心主義)に合理化を施し、原始的棘(傲慢、偏狭、残忍さ)を抜きとっている。こうして愛国心は民主主義によって近代化される…と。

しかし先日、「アメリカの愛国心の強さ」というブログを読んで感じたことだが(アメリカの歴史を理解しないではこの問題を論じる資格はないのかも知れない)アメリカが民主主義の見本のような国であったとしても、「フロンティア精神」、「多民族国家」という歴史的経過が「エスノセントリズム(民族中心主義)」を未だ一部残して、お互いの「存在」を主張し合っているのではなかろうか。

ひるがえって日本、「存在」を主張する必要性もないほど、同一性の高い国であり、そのことが愛国心・国旗への敬愛を淡泊にしているのかも知れない。その意味では日本在住の外国籍の家庭では遠慮なく国旗を立ててはどうか?そのことが日本人の民族意識を高め国旗、国歌への敬愛を高めると思う。しかしこのことには、治安、安全の問題も絡むだけに簡単に考えてはなるまい。

清水先生は更にいう。愛国心は個人及び世界の確立という考えによって近代人にふさわしいものに高められた。「国家が彼に何を約束し、何を与えるか」ということと、「彼が国家に対して行うサービス」。この両者の計算と比較は、人間が自由な個人として、また自己の生活に責任ある個人として定立してこそ実現し得る。最後の責任は自分が負わねばならぬものであるから、頼むべきは自己の判断と良識であろう」と。要は「盲目的愛国心でなく、当然そこにギブアンドテイク的取引が在って」しかるべきことを述べている。                                           今日、この国の国民にはもう「医・食・住の安全と安心」はない。であれば福田さんよ、安倍さんよ、国民に一方的に愛国心など求めないで下さいといいたくなる。「行政の怠慢」と「国民の拝金主義的堕落」。私は国家・行政だけにその責任を持てというのではない。「安心と安全」をなくした直接的原因は一部国民の不心得、道徳的廃頽にあろう。しかしその背景に、道徳教育を実施して来なかった国家の責任があろう。清水先生の解説を読んだとき、十分に理解出来なかった「国家が彼に何を約束し、何を与えるか」ということと、「彼が国家に対して行うサービス」…というくだりが、いまよく理解できたように思う。

私の結論としていえば、「愛国心は本来自発的に素直に発露・発現されたものであろう。しかしその段階の愛国心には動物的・本能的傲慢さ、偏狭さ、残忍さが残る。だが、国際関係が進展、複雑化し、相互の文化理解なくしては共存出来ない現代においては道徳教育、歴史教育は勿論、国際間での交流体験が真の洗練された「愛国心」となるのではなかろうか?と。

ところで戦時中、徴兵年令にまで達していなかった私自身は、戦場の「不条理」を体験していない。2,3年の年令差で戦場を踏んだ世代の先輩は、戦場における己の存在の無意味さ、空虚感、希望のない明日への絶望感などから、軍幹部への不信感を深めたようである。私はその世代の苦悩を知らないだけに日の丸の旗への屈辱的想い出や深刻な忌避感はない。(2008.02.11)

(1)清水幾太郎著「愛国心」、(昭和25年3月10日初版)昭和48年1月20日発行、28版

(2)山田久美著 「ボストンに恋して」 主婦と生活社 1991. 4. 8 初版

(3)アメリカの愛国心の強さ: http://www.kayo2u.tv/nyd/archives/000067.html

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N0.68:初詣・ショートカットの賞味期限 

◇初詣                                                         
1月4日、京都北野天満宮、金閣寺、銀閣寺に初詣に行く。入試が近いこの時期、天満宮はさすがに若い参拝客で賑わっていた。 Photo_9

ここから金閣寺までは歩いても行ける近さと聞いたが、タクシーに乗った。近づくにつれて道はさすがに混雑して来た。タクシードライバーは、「ここは年中賑わっていますよ」という。

1950年放火により焼失、1955年に再建されたというからもう50年ほど経過しているが、生まれたてのように金閣寺は輝いていた。絢爛豪華、まさに権力の象徴である。しかし多くの文化財は権力者の手で作られ後世に残ったものとも言えよう。               2_2

所在地は京都市の西北、京都市北区金閣寺町、西に衣笠山、背後に左大文字山をひかえた景勝地にあるという。
ウイキペディア:金閣寺
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B9%BF%E8%8B%91%E5%AF%BA

ついで銀閣寺参詣だ。京都の東に連なる山々は東山(ヒガシヤマ)と呼ばれ、如意が岳(大文字山)を中心になだらかに続いているという。その山麓にある銀閣寺は金閣寺から見ればほぼ真東の方向にあった。いま「金」と「銀」とは市バス(急行)でつながれ観光客には大変便利になっている。京都大学の北西角の交差点「百万遍」を通り抜けるとすぐ銀閣寺道となる。ここで下車し、10分ほど歩く。4時過ぎに到着。                                     Photo_7
閉門まで小一時間ほどとなっていたため、「池泉回遊式庭園(錦鏡池)」を急ぎ足で回る。 くすんだ渋い色合いの仏閣は、たそがれ時の冬の庭と調和して一層しっとりと落ち着いて美しかった。きらびやかな金閣よりこの寺に愛着を感じる人も多いだろう。私もその一人である。
ウイキペディア:銀閣寺
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%85%88%E7%85%A7%E5%AF%BA

帰り道お汁粉を食べに立ち寄った喫茶店「トライアングルハウス」の女主人が紹介してくれた京料理店Photo_8 「割烹かつ竹」は、すぐ近くの静かな住宅街にあった。

一階は、8席のカウンター席のみ。夫婦二人で賄っているように見えるこじんまりとしたお店で、6席はすでに先客でふさがっていた。主人は鮮やかな手つきと感性で旬の素材に魂を入れて行く。そのうしろ姿に客との勝負心が伺われる。ならば客もまた受けて立とう。五感で勝負だ。

先ずは「見た目の美しさ」はどうだ?料理の彩りと器  の調和、これぞ美味しさを演出する要素だ。
嗅覚をくすぐる「そこはかとない香り」、その正体は何か?
耳元にまでジンと来る「味蕾の衝撃」はあるのか?
器の形の優しさ、面白さ、暖かさなど「手のひらの触覚」はどうか?
最後は「音の味わい」だ。揚げ物、蒸し物、お造りなど、それらの作品作りから生まれる音もまた食感だ。カウンター席なら主人との遣り取りも心に残る。

食は文化といわれる。一般に「文化」は評価の対象であり、好悪が伴うもの。絶対的評価はないに等しい。殊に料理には評価のモノサシがない。美食・健啖家だって頼りないもの。吉兆の偽装を見破れなかったではないか。だから私はミシュランの評価など何だ!といいたい。
とは言いよう、庶民代表としての私は自分の感覚を研ぎ澄まして高い評価を付けた。

横浜から来たという隣席の若い夫婦は、友人のお薦めでこの店に来たという。我々夫婦は食が細いことを伝えて品数を少なくして貰ったので隣客に挨拶して席を立つことになった。京料理の期待を裏切らない素材と味わい、しかもリーゾナブルなお値段。想い出に残る新春京の夜であった。

 割烹かつ竹: http://kyotowa.com/katsutake

◇ショートカットの「賞味期限」
この年初、ブログをアップロード(08/01/10)した折ブログバナーも今年の干支に相応しい「ねずみ図案」に変更しようと試みたが失敗した。結局文章は変わったがバナーは昨年の「落ち葉のワルツ」が顔を出すというお粗末さだ。
これまで何度も自作バナーをアップロードしてきたので、簡単に変更出来ると考えてもおかしくはないのだが…。やむを得ず翌日プロバイダーの助けを借りることにした。

「あなたのブログを見ながらトラブルを伺ってもいいですか?」と言ってURLを求めて来た。やがて彼は「いま見ているブログのバナーはねずみの図案ですが、これが何か?」と言う。「え?私のパソコンのバナー画面にはねずみはいません…」。

彼のてきぱきとした指示で問題は2、3分で解決した。思わずサンキュー!彼はこの種のトラブルの経験があったのであろうか。
彼は言った。「あなたはどのようにしてブログを呼び出していますか?」
「ブログ上で作ったショートカットのようなものをデスクトップにおいており、そのクリックで呼び出しています」
「ではそれをやめて、あなたのURLを検索窓に直接書き込んで検索して下さい」。
「あッ!ねずみが出てきました!」。
こうして私のねずみは1日遅れで現れた。それにしても昨年話題の「賞味期限」の問題がショートカットにまで及んだのかと苦笑いした。

私は当時どのようにしてショートカットを作成したか、今は定かではない。
今は「お気に入り」と「ブックマーク」も作っている。しかしこれらとて今後は適宜賞味期限を確かめることにしよう。(2008.01.28)

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No.67 2008年新年雑感

「新年の誓い」を立ててその目標に向かって邁進するなどの必要のない私である。しかしあえて誓いを挙げれば「日頃疑問に思っていることは徹底して追求して行く」ということである。080101

一日の天声人語(朝日新聞)欄に(一般に)「昔話を、それも『良き時代』を語り出せば成長は止まるという。だが、語りたい、語るべき過去があるのはいい。…」とあり、同感。先ずはそこらあたりから書こうか。
亀の甲より年の功だ。私もその「古き良き時代」に育った人間として少しはいわせてもらおうか。「旗日」になぜ国旗を立てないか?私は元旦には必ず国旗を立てている。それが日本人としての私の誇りであり、我が家の古き良き習慣である。こういった文化は変わって欲しくない。しかし最近近所でも滅多に旗を見ない。消防署と交番くらいである。
                             Photo
お節料理の習慣については、我が家も少しずつ変化している。老齢化に伴い昨年から近所の料亭のおせち料理を購入している。結構おいしい味付けで満足している。
食品の冷蔵・冷凍技術のおかげで、いわゆるお節料理といわれるような「日持ち」を第一に考えねばならぬ料理も、年末に張り切って作っておくという必要は少なくなった。しかしこのお料理は結構手がかかる。この食文化が変化して行くことは淋しい気もするが、やむを得ないことでもある。
Photo_2
昨年は「…品格」と「偽」の話題で終わった。「偽」については今更書く気にもならない。後味の悪い事件であった。競争の激化が主原因ともいえようが、「偽」の根源にあるものこそが「品格」の問題かもしれない。
しかしそういった「品格」の回復に「武士道精神」を…と藤原正彦先生が書いていることについては如何なものか?
昨年11月、小豆島の「24の瞳」の映画ロケ教室で見た昭和3年当時の小学校1年生の時間割には、「修身」が週に5時間もあった。当時徳目教育は徹底していたといえよう。徳目の教育を武士道精神から学ぶことは有るまい。この問題は次回に新渡戸稲造著「武士道」の読後感で私見を述べたい。

元旦のNHKラジオ第一放送で「21世紀日本の自画像、変わる世界と日本の10年戦略」と題した財団法人日本総合研究所会長寺島実郎氏と慶応義塾大学金子(勝?)教授の対談を聞いいた。含蓄のある種々の提言を一口で表現することは出来ないが、記憶に残っている点は、    
世界の経済システムはこの10年(日本のバルブ崩壊の頃から)劇的に変化し、資本主義の一人勝ち状態となっている。
対立軸が無く、組合への加入率も20%程度で、労働組合運動は機能していない。
そういったシステム的課題を根的に改革すること無しには、年収200万円というようなフリーター問題は解決しない。
また、自動車産業に次ぐ裾野の広い産業の出現が必要といったような主旨の討論もあった。

私は、フリーター問題は個人的資質の問題、例えば「ハングリー精神」の欠如など戦後教育に原因があるのでは?と考えていたが、そう簡単な問題ではないことを示唆した対談であった。社会、経済のシステムの問題点についても今後考えて行きたい。(2008.01.10)

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No.66:再びスペイン、内戦のころ

前回(No.65)の「パルケ・エスパニア印象記」に私は「パエリアか?パエジャか?」と疑問を書いた。早速ある方からコメントで明快な回答を頂いた。御礼を申しあげると共に、ここにその一部を付記させて頂く。

「パエリヤの件ですが、私の知り合いのパルケエスパーニャで働くスペイン人は皆「パエージャ」と言います。…彼らは(アンダルシア出身もカタルーニャ出身もバスク出身も)普通に「パエージャ」でした。
スペイン語の(lla)を(ジャ)と発音する事が多いです。sevillanasはスペイン村のコンテストでは「セビリャーナス」と言ってますが、スペイン人たちは皆「セビジャーナス」と発音してます…」と。
これから私も「パエージャ」で行きたい。

さて本論。ある日(1990年頃)私は「斜陽はるかな国」(逢坂 剛、朝日新聞連載小説)に出会う。
舞台はスペイン。ストーリーは東京とスペインとを往復する。タイムトンネルは50年前のスペインの硝煙弾雨の中に抜ける。そんなストーリーだが、難点は民族名と小政党名の略記号が覚えられないこと。この小説のためにやむなくスペインの歴史を勉強することになる。太平洋戦争中、学生は15、16才から学徒動員で軍需工場に配属され、飛行機部品などの生産に携わる。私は弁座とクランクシャフトを削っていた。こうして西洋史の授業も中断。脳細胞はブランクのまま50年をすぎていた。

スペイン内戦は、1936年(昭和11年)7月17日スペイン領モロッコで軍部の反乱に端を発し2年8ヶ月後の、1939年(昭和14年)4月1日、反乱軍フランコ将軍側のマドリード占領で終わる。以後フランコ将軍は1975.11.20(昭和50年)82才での死亡まで、実に36年余にわたってスペインに独裁体制を敷くことになった。

内戦勃発当時、日本も荒れていた。その年2月、日本ではクーデター2・26事件が発生する。陸軍の皇道派反乱将校15名が下士官、兵1400人を率いて岡田啓介首相ら政府要人を襲い、斉藤内大臣、高橋蔵相らを殺害。私は小学校2年生、号外の慌ただしい鈴の音だけが頭のどこかで今も鳴り響いている。クーデターの結末は、純真無垢の青年将校を煽ったとされる真崎甚三郎大将を含む全現役大将(新任2名を除き)が予備役編入となり、反乱将校15名は全員死刑となる。

スペイン内戦の要約
内戦の原因はこれより遡ること5年前の1931年(昭和6年)4月、左派系勢力がブルボン王朝のアルフォンソ13世を倒して民主政府(左派優勢)を樹立したことに端を発した。第二共和政府と呼ばれるこの政府は、共和行動党(左派)、社会党、急進社会党、一部の右派共和主義者からなる人民戦線であった。

この政府に対抗して反乱したのが右派フランコ軍。これをドイツ、イタリアのファシスト政権が武力で支援する。
    
スペイン共和国政府は、支援をフランス、イギリスに要請する。しかしフランス、イギリスはこれを断り、27ヶ国が(内政)不干渉のもとに結束してスペインを見放す。

これを見かねたソ連は、スペイン共和国政府を支援する。
こうしてスペインを舞台にドイツ、イタリア、ソ連が戦争状態で死闘を展開する。

スペインを救え」、「マドリードをファシストの墓場に」と、世界の良心?がこの内戦に義憤を感じ立ち上がる。世界55ヶ国から外国人義勇兵4万人、医療部隊、救援組織2万人がピレネーを越える。これら国際義勇兵の大半は共産党員またはその同調者であったが、いずれにせよ、彼らはスペイン共和国の大義のために戦ったという。

ジャック白井はただ一人の日本人義勇兵としてアメリカから参戦して1937年(昭和12年)7月11日戦死。石垣綾子著「スペインで戦った日本人」はその評伝である。
ヘミングウエイの「誰がために鐘は鳴る」、アンドレ・マルロウの「希望」、ジョージ・オーウエルの「カタロニア賛歌」もこの戦場から生まれた戦争文学という。

日本政府は1937年(昭和12年)12月1日、スペイン共和国政府と国交を断絶し、反乱軍フランコ政権の正式承認を宣言する。
この背景に我が国はドイツ、イタリアへの満州国承認を期待した駆け引きがあったのではないか(満州国建国宣言は1932年、昭和7年3月1日)ともいわれている。ちなみに、
イタリアの満州国承認は1937年(昭和12年)11月30日、
ドイツの承認は翌1938年(昭和13年)2月25日。

日本政府のドイツ、イタリアとの関係は、
1936年(昭和11年)11月25日、先ずドイツと「日独防共協定」を締結、
1937年(昭和12年)11月6日、イタリアもこれに参加して「日独伊三国防共協定」が締結され、日本のファシズム(全体主義)化が進む。

内戦は何故起こったか?
スペインが抱える複雑な民族問題、スペイン社会の深刻な矛盾(宗教、教育、選挙、農民)に基づいた階級闘争といわれ、将軍フランコのクーデターは1814年以来、実に202回目のことという。その芽は常に内在したというべきであろう。
                                                                              
スペインは、1982年社会労働党が政権を取り、書記長ゴンサレスのもと、民主化が進められ、夏季オリンピック(バルセロナ1992.7.15~)、セビリア万博(1992.4.20~10.12)等を成功裏に終了し、その後の選挙にも社会労働党がかろうじて政権を維持した。(原文:1990.6平成2年6月)

その後の民主化状況
以上は1990年時点で私が纏めたもので、その後の政情については
日本大学法学部准教授 池田 実 先生の [概説]「スペインの民主化過程」に明解に解説されているので一部を引用させて頂く。

「スペイン現行憲法は、20世紀後半につくられた憲法としてはめずらしい、王政復古の憲法である。しかもそれは、37年の長きにわたる厳しい独裁体制を経験したスペインの為政者・国民が、熟慮と忍耐を通じて歴史上初めて獲得した、広範な国民的合意に基づく真の民主主義国家の憲法であった。フランコの死から現行憲法制定までの移行過程(トランシシオン・エスパニョーラ)は、民主化の著しい成功例であるばかりでなく、君主制と民主制の完全な両立、さらに、現代スペイン民主政治の発展と安定のために国王が果たしている決定的に重要な役割を裏付けるものとなっている。

フアン・カルロス国王の民主化戦略
フランコは、自ら養育したフアン・カルロスに、フランコ体制を継承させるつもりだった。しかし、若い新国王は、その強大な権限を、独裁を継承するためにではなく、フランコ体制に終止符を打ち、この国に立憲民主制を確立するために用いた。
国王は、クーデタや内戦に明け暮れたスペイン近代史の教訓にかんがみ、反体制勢力との積極的な接触・対話を通じて合意形成に努め、制度改革の面では、急激な変革を避け、フランコ時代の法制の枠組を通じて漸進的に立憲民主制に移行する方法を選んだ。…。

スペイン憲法の吹きだまり: 04. [概説]スペインの民主化過程
http://constitucionalismo.way-nifty.com/quijote/cat216712/index.html

参考資料:                      
       逢坂 剛:斜陽はるかな国、朝日新聞連載
   斎藤 孝:スペイン戦争、中公文庫、1989年9月10日、初版
   川成 洋:スペインへの道、れんが書房新社、1983年12月15日、初版
   飯塚一郎:大航海時代へのイベリア、中公新書、1981年2月25日、初版
   石垣綾子:スペインで戦った日本人、朝日文庫、1989年2月20日、第一刷
       中村政則編:「年表昭和史」 岩波ブックレット シリーズ昭和史No.15 
              1989年9月25日 第5刷発行
      インターネット資料:
   http://www.kashiroman.com/lec/espana.html スペイン入門      (2007.10.31)                                                         

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65:パルケ・エスパーニャ印象記

A0_4
先月(2007.09)伊勢志摩のホテルに泊まったおり、初めてパルケ・エスパーニャ(スペイン村)を訪れ楽しい一時を過ごした。その気になれば我が家から3時間程で行ける近さながら、日頃私は「スペインは本物で味わいたい」と考えて敬遠してきた。年間数千万人を超える旅行者がスペインを訪れているというスペインの魅力は一体なんだろうか?その理由を私の目で確かめたいと。

B0_3
しかし結構いい年令になってしまった私は14,5時間もの空の旅は苦痛であり、その願望は萎むばかり。そんな思いもあって、”心ならずも”とまでは言わないがここを訪れた。写真はホテルからの遠景(1,2)、スペイン村内の建物、ハビエル城博物館内部の展示品、ショーなどである。


C0_3 入り口で貰った小冊子(*1)、”スペイン”(スペイン政府観光局・東京版)で教えられたことの第一は、「年間5,000万人を超える旅行者がスペインを訪れています」とあり驚く。
第二は「厳密に言えばスペイン料理!というものはなく、それぞれの地方独特の郷土料理がある」というくだり。スペインの魅力の根源は「食」に限らず歴史的建造物・文化財など、恐らく文化の多様性にあるのではなかろうか?D0

小冊子は更に、「料理の多様性を大きく区分すれば北部料理、地中海料理、中央大地料理、南部料理となる」とあった。(日本にはこういう分類はない)恐らくこれらの特徴は、気候・風土の違いによる食材の相違もあろうが、周縁国の侵攻と混血の歴史による異文化との交流が食文化の多様性を生み出したであろうことは容易に推察出来た。それと共に、その特殊性・多様性を守り抜こうという執念、それこそが「民族性」ではなかろうか?F0

ところで日本、僅かに駅弁などに地方色を残した料理もあるが、各地の日本食に大差はないように思う。味付け、料理法、飾り付け、食器ともに同一文化の上にある。特殊性・多様性の少ない理由は、島国のため地続きの周縁国がなく、外敵による異文化の流入が少なかったためではなかろうか。
今日問題となっている「フードマイレージ」は世界各地の食材が遙々と流通経路に乗って我が国
G0
に来ることの是非を論ずるものであろうが、その是非はさておき、食材は産出国の文化的背景、即ち料理文化まで同時輸入されるものではない。

さて、スペイン料理に戻ろう。もう大分以前の話だがたまたま聞いたラジオスペイン語講座の講師が「日本では
パエリアと言われているが本当はパエジャだ」と。ではその「パエジャ」が何故用いられないのか?この多年の疑問をインフォメーI0
ションセンターの係員に尋ねた。「日本語でも色々表現があるようなものでしょう」と素っ気ない。
昼食を取ったコロンブス広場のレストラン従業員に再び同じ質問をした。彼女は「スペイン人は時々パエジャと言いますよ」と返ってきた。「パエジャ」が私の聞き違いではないことだけは判ったが、私の周辺で「パエジャ」党は一人もいない。何故だろうか?
「パエリア」か「パエジャ」か? Webで探すと判りやすい情報があった。(*2)

1、パエリア語源
ラテン語のフライパンの意味のPATELLAパテーラから古いフランス語パエールとなり、
カタルーニア語のパエリヤになる。

2、
PAELLAの発音
パエリア、パエリヤ、パエリャ、パエーリャ、パエジャ、パエージャ、パエヤ、パエーヤどれでも良いでしょう。ちなみに並んだ順に使われている様です。

パエジャ、パエージャ(エにアクセント)はアンダルシアなまりですが、
マドリードやパエリアの本場バレンシアではパエジャ、パエージャの発音です。

とあった。これで了解できたが、この多様な表現こそがスペイン文化の本質であろうと感心したところである。(2007.10.26)

(*1):小冊子:スペイン(スペイン政府観光局・東京版)
(*2):”スペイン料理パエリアのレシピの作り方PAELLA”
    ”  ”内を、Yahoo!Japanで開くか   または     http://www.casa7.com/paella/    をYahoo!Japanで開いてください。

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64:ケータイにまつわる不安

.パソコン歴20年ほどの私だがケータイはこの春からという素人。ペースメーカの世話にな071015cap っている私としては不本意な選択だが、公衆電話の減少、高齢化に伴う緊急時の連絡などのやむを得ない事情から、ペースメーカとのニアーミスを警戒しながら用途を我が家との連絡だけに絞って使用することにしている。

そんな私だから基地局から出る電磁波の近隣住民への影響や、ケータイ使用者自身への影響(ペースメーカ問題を除き)問題を全く意識して来なかった。

しかし否応なくこの問題に頭を突っ込む事になった理由は、近所のビルの屋上に2本目の携帯基地局設置計画が持ち上がり、自治会がその対応に当たることになったためである。640size

左の写真はケータイ電話会社A社が既に設置しているアンテナである。B社が同様な基地局を設置したいと申し出た理由は、GPSの需要増加を見込んでの対応のようである。ところが住民の一部が過敏に反応して予想外の大きな問題となり、結局自治会は手を引く事になった。

GPS(Global Positioning System 、全地球測位システム、地球上の現在位置を知る衛星測位システム)は迷子や、私もいつか徘徊高齢者としてお世話になるかも知れない「現在地確認」機能を持つハイテクであり、そのこと自体には私も反対する理由はない。また、日頃ケータイ文化にどっぷり漬かっている人は果たしてこの計画に反対する資格があるのか?と私は疑問に思っている。

2007.09.30の朝日新聞関西版P.3に「電波だらけ体は平気?」という記事があった。
この記事は何故か「基地局の危険性?」には触れていない。また、「あしたを考える」というテーマとなっていること自体が、もう10年以上の歴史をもつであろうケータイの、問題の深刻さを物語っている。

この新聞記事に限らず、Webで関連記事を読めば読むほど不安を感じる報告ばかりである。人類は自らが生み出したハイテクの利便性の背後に潜むリスクを、正確に予測・評価できず、予防法の確立もできないままに、「壮大な実験」を推進中ということであろうか。

朝日新聞の記事のまとめは大凡次のようである。
①:高周波電磁波の発がんリスクの有無について、国際がん研究機関は 2,3年以内に 発表する見込み。
②:世界保健機関(WHO)は電磁波によって頭痛やめまい、吐き気などを覚え、皮膚に赤みやチクチク感などが出る電磁過敏症を訴える人がいると認めるが、日本では科学的実証がないとして、「疾患」とはとらえていない。                                     ③:NPO法人市民科学研究室の上田昌文代表の「子どもの脳腫瘍発生に影響しているという疫学研究も、少なからずある。長時間・長期利用には何らかの対策を講ずべきだ」と訴え、(朝日新聞は)「安全とも危険とも(現段階では)判断できないものは、とりあえず対策を取るべきだとする予防原則に沿った主張である」として(評価)紹介している。
④:しかし総務省は「科学的根拠がないことは予防原則の対象ではない」とするという。
⑤:弘前大学宮腰順二教授(国際がん研究機関専門委員、電磁波生命科学)は「現在の科学で解明できないからといって無視はできない。症状を訴える人がいる限り調査や研究は必要と語る」と紹介している。

さて本論、基地局からの電磁波の影響はどうか?「携帯電話」というWeb記事
http://www13.ocn.ne.jp/~tanuyo/huremu9.html
によれば
「携帯電話の問題は、①携帯電話本体の問題 ②中継基地の問題 の大きな二つの問題があると思います」。この論文の最後に「各国の中継基地からの電磁波規制値比較」があり、「日本における基準の甘さに注目!ロシア(規制値の上限)は日本の約400分の1、ザルツブルクは10000分の1となっている」と紹介していることには驚きであった。

       各国の中継基地からの電磁波規制
       (体表面1cm2当たりの被曝量)
     日本(1.5GHzの場合)     1000μW/cm2
     ICNIRP(*)               450μW/cm2
     イタリア                 10μW/cm2
     中国                  6.6μW/cm2
     スイス                 4.2μW/cm2
     ロシア                    2.4μW/cm2
     ザルツブルグ(オーストリア)    0.1μW/cm2
     アメリカ                  600μW/cm2
      1mW(ミリワット)=1000μW(マイクロワット)

          (*)ICNIRP:国際非電離放射線防護委員会

私の感想としては、ケータイの電磁波影響問題には恐071015640480cap_2らく個人差があり、そのことがこの 問題を一層複雑、深刻にしているのではないか?と思う。しかし現実に体調不良や病変を生じている人があれば、研究者や政府や行政は「疑わしきは調査、研究」という断固とした姿勢を貫いてほしい。日本政府の腰の重さ、鈍感さには誠に不満である。 (2007.10.16)

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63:「日本人の無口は、内気か?プライドか?」(ジュネーヴからチューリッヒへの旅から)

                            071002640   071003
今年は猛暑のせいか、彼岸花の開花が遅れていた。紅、白並べて植え付けている庭先の彼岸花のうち、白が漸く昨日から、そして待望の紅が今日咲いた。一方、時計草は6月の「時の記念日」の頃から咲き始め今日もまだ咲き続けている。これも異常気象のせいだろうか? 

 スイスのジュネーヴからチューリッヒに向かうインターシティ(国際列車)に乗り込んだ1985年6月のことだ。さてどこに席をとろうかと車内を一瞥した時、車両の中央あたりに日本人らしい男性客を見かけた。少しためらったのち、「隣席に座ってもよいか?」と私は声をかけた。これからチューリッヒまで共に過ごしたいと考えたのはこのがら空きの車内で、バラバラに座って約3時間もの退屈な時間を過ごすのは苦痛であり、滑稽でもあると考えたからである。
しかし返ってきた言葉は中国語らしかった。私は全く解らなかったので、一礼して通り過ぎ、進行方向右手の窓側に座った。 

 海外旅行中、日本人同士が出会っても目をそらしてしまう人が多いようだ。これは何か?日本人の内気さなのか?あるいはプライドのためだろうか?と思ったことがある。
元来私は隣席の人が外国人であろうと誰であろとあまり気にはしないし、言葉の障碍さえなければなるべくお話したいと思う方である。だが、残念ながら外国人の場合、こと志のようには行かないし、一般論としては、行きずりの人間同士のふれあいにはリスクもあり、賢明な人の沈黙は「金」かも知れない。

 大分以前に読んだ上智大学渡部昇一先生の「エジンバラ通信(週刊誌に連載)」に
「あれほどプライドが高く、滅多に口を利かなかったイギリス人が、列車の中などで気軽に話かけてくる」とあった。…それと比較して「日本では新幹線の中などで隣席の人と肩が触れ合う程でもめったに口を利く人はいない。GNPの増大がプライドとなり、プライドが人間を無口にする…」といったような内容の、イギリス留学(研究休暇)中の体験が随想として述べられていたように記憶している。ここに何か、ヒントがあるように思われる。

 話は代わるが、私の属しているあるグループのパーティに出席したときのこと。早めに会場に入ったために結局日頃から良く知っている友人や知人の隣席に座り込み、新しい友人作りができなかったことがある。だが仕事の都合でぎりぎりに出席したために、数少ない残り席に着き、その隣席に素晴らしい未知の友人を得た場合もあった。
パーティーは共通の目的を持った人々の集まりであり、「本来パーティーとは未知の人同士が知り合うためのもの」とも言われていれば積極的に話しかけるべきであろうが、初対面の人と話題の波形や波長を重ね合わせることには気苦労もある。しかし時に共通の友人が話題に上がったりしてこの世の中、小説もどきの偶然と面白みもある。640

 ジュネーヴを出発したインターシティはまもなく右側にレマン湖を眺めることになる。列車は徐々に登り坂にさしかかり、なだらかに湖面まで続く緑のスロープが美しい。その所々に村落が点在し、赤い尖塔を持つ教会も見える。ふと目を中天に移すと、棚引いた白い雲の上に白銀の峰々が顔を出している。あれがかのモンブランか、マッターホルンか或いはユングフラウか?と目を凝らし想像を巡らす。こうして、カレンダーで目にするスイスの名山が次々と車窓から飛び込んでくる。この雄大な景観に思わず息を飲むと表現したいところだが飲みっぱなしには出来ない美しさの連続である。ジュネーブからチューリッヒまでの移動を列車にしようか、空の旅にしようかと迷ったとき、列車を薦めてくれた友人に感謝したところだ。

 自然の美しさの効用は、今様にいえば「癒される」ということだろう。ではスイスの美しさはどのようにして維持されているのか?聞けばスイスの最初の「環境保全法」は1876年に遡るという。そういった長年の努力なしに今日の美しいスイスは存在しないだろうし、自然とはいうものの、もはや人手のかかった「文化」というべきである。北海道にはこの風景に似た美しい自然があるが、「手つかずの自然」ということではないだろうか?
他方、本州の景観は何だ!と言いたい。山麓も、田園地帯も市街地も、文明という名の作為が広告や電柱、鉄塔、或いはネオンサインとなって自然を汚している。街並みのビルや家屋も、その雑多な色遣いや形状には「調和」という美学がない。私には満身創痍の自然のすすり泣きが聞こえる。

 さて、私の隣席にどんな美人が現れたか?確かローザンヌあたりから大勢の人が乗り込み、隣には頬髭を蓄えたジュネーヴ大学の物理学専攻の学生フィリップが、その向かい側が彼の友人、私の向かいには中学生位の可憐な女子学生が席に着いた。男子学生はこれからチューリッヒの女友達を尋ね、金曜日の夜を過ごすと言っていた。

 御存じのようにスイスには四つの言語、フランス語、ドイツ語、イタリー語、ロマンシュ語があり、単純には区分できないが、ジュネーヴから彼が乗り込んで来たローザンヌあたりまでが主としてフランス語圏、スイス住民の約18%を占める言語だ。そして目的地のチューリッヒは代表的ドイツ語圏、この言葉はスイス住民の65%を占めるという。そういった言語環境に生まれ育った彼らには使い分けの苦労もなかろうが、私のようにフランス語は全く駄目、英語もドイツ語も単語少々人間にとってここらあたりでの会話は大変であった。
ただ幸いに、私には日本でもよく知られたウド・ユルゲンス作曲の「Was ich dir sagen will」、日本名「別れの朝(作詞、なかにし礼)」があった。思わせ振りな題名と粋な歌詞がついている。私はこの曲を口ずさんで彼らに私の気持ちを伝える。
原詩の、内気な男の独白が私の気持ちにぴったりだ。
「私があなたに伝えたいこと、それはとても難しい。私の前のレターペーパーはいつまでも白いままで残っている。私は言葉が見つからない。でも信じておくれ、私が君に言いたいこと、それは私のピアノが語るから」…と。
私は「ピアノの代わりに目で君に気持ちを伝えたい」などと冗談を言っている内に列車はチューリッヒの駅に滑り込んだ。
明日はいよいよ日本に向けて出発する。スイス最後の夜をこの地の日本料理店で味わおうと私はタクシーを拾ってSへと急いだ。(原文:1992(H04)08)2007.10.03

  作詞 Joachim Fuchsberger
                Was Ich Dir Sagen Will
       Was ich dir sagen will, fällt mir so schwer,
       Das Blatt Papier von mir bleibt weiß und  leer.
       Ich find' die Worte nicht,  doch glaube mir:
       Was ich dir sagen will, sagt mein Klavier.  (1番のみ、以下省略)
作曲  Udo  Jürgens

以下は、林 久博 氏執筆、(2004年博士課程修了、名古屋大学文学部ドイツ文学研究室)のHPから引用させてもっらいました。
http://www.lit.nagoya-u.ac.jp/~deutsch/student/literatur/popmusik.de.htm
ドイツ・シュラーガー(歌謡曲)界の重鎮的存在、ウド・ユルゲンス。1934年生まれ。日本でも1971年に「夕映えのふたり」(原題:Was ich dir sagen will)がヒットし、中高年層では名の知られた歌手です。…)この曲はその後さらに、ペドロ&カプリシャス(高橋真梨子がかつて所属していたバンド)が「別れの朝」というタイトルで日本語版を歌ってヒットしました。なかにし礼の作詞です。以上

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