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2005年4月16日

2005/04/16

4:もう一度あなたに会いたい

welcome 2003年6月、シドニー空港発JL-778便の搭乗案内を待つ間、私はロビーのとあるジュエリーショップでオパールを眺めていた。もし「メイアイ ヘルプユー?」と声をかけられたら「ジャスト ルッキング サンキュウ」とだけ言おう。もう時間もないのだ。

旅行社のツアーに参加した私の旅は英語を使う機会など殆どなかった。せめて最後にこの言葉で私の旅に花を添えよう。そう力んでいた私の「花」をあなたが無惨に散らす。

「オパールはいま大変お安くなっております。お土産に如何ですか」と。「えっ?どうしてばれたかな?」。出番を失った「花」の所在無さ・無念さよりも日本人である私の正体を見破った彼女の慧眼にたじろぐ。「持ち物、服装それに優しい目元です」とあなたが微笑む。しかしその「優しい目元…」という言葉が私の胸をぐさりと刺す。「平和と安全は既に神話」と言われる日本。だが幸いテロや事件に遭遇した経験の無い私は「警戒心」も「猜疑心」もなく徘徊していたのか。そこにあなたは平和ボケした日本人の典型を見た。恥ずかしさ、腹立たしさ、惨めさ。私はあなたの名前を尋ねる余裕もなくそそくさとその場を立ち去った。

売店、レストランなどサービス産業の最前線で働く日本の若者の姿に、当初私は日本で見かけるフリーター像が重なっていた。しかし間もなくそれが誤解と分かる。
ワーキングホリデー・ビザ…1980年12月、この新しいビザが貿易摩擦緩和の一環として日豪間で締結される。年齢と期間の制限、語学研修と預金持参を必須条件とし、許容範囲内の就業(ワーキング)で生活費の一部を補い、休暇・旅行(ホリデー)を主体的に楽しませるというもの…。若者は真面目に職業意識も携えてやってくる。あなたのような識別能力はお客に「満足感」を与え、経営者は売り上げの伸びを喜び、ワーキングホリデー・ビザへの日本人の「忠誠心」も評価される。

ここで私は君たちに一言いわせて貰おう。折角の滞在の機会に日豪関係の暗い過去も直視して欲しいし、この地の暖かい歓待が、戦後の日豪関係の改善・親善に努力した先輩たちのお陰であることも知って欲しい。そして悲しいことだが、親善意識だけでは守れない「安全」のあることもだ。

第二次世界大戦の緒戦、日本軍は南方海域の前線基地からダーウイン、ブルーム、ニューキャッスルの各市街地を砲撃・爆撃して被害を与える。シドニー湾に侵入しては軍施設を攻撃する。こうして両国関係は決定的に悪化した。
他方、オーストラリア政府がカウラに建設した日本兵捕虜収容所では、「生きて虜囚の辱めを受けず…」の教えからか、捕虜将兵の大脱走事件が発生し、200余命が落命する。遺骨は今日、日本人戦没者墓地に埋葬されているという。胸痛むこれらの事実を、私もこの度初めて知った。

日本は1945年8月、敗戦で終戦を迎えた。征服者は武器を携えジープと自国語で私の町にも乗り込んで来た。廃墟・焦土と化した街並み、食糧の窮迫、価値観の逆転、戦後日本は衣食住のみならず制度、思想的にも混迷の極地にあった。しかし征服者への住民の反感・反乱もなく平穏の内に復興の歯車が緩やかに回り始める。やがて駐留オーストラリア軍将兵との恋を実らせた女性達。こうして渡豪する戦争花嫁たちも生まれる。私は、その花嫁の今日をメルボルンの邦字新聞で知った。

「来豪当時に比べて対日感情は大きく変わり、日本の食料品も手に入り易くなり、本当に住み易くなりました。この春、メルボルン近郊に住む『八重桜会』の仲間四十二人が、戦争花嫁来豪五十周年を記念してパーティを主催。他州の仲間もゲストとして参加し総勢61人が、来豪当時の古き良きジャズをBGMに、大リユニオン(懇親会)となりました」と。私はほっとした。嬉しかった。

50年前に敵国・敗戦国の日本からこの地に渡った花嫁たち。奇縁というか時代の運命に翻弄されたというべきかも知れない。当時一片のチョコレートさえ口に出来ない貧困な日本からやって来た花嫁達は何の不自由も無い生活には大いに満足したに相違ない。でも日々生きること…子供を育て家庭を築き、近隣社会と友好・親善の絆を築く…という生活文化の相違は、カルチャーショックとなって花嫁を悩ませたに違いない。時代は変わり今日、豊かさを謳歌している私達。しかし今なお外国ではカルチャーショックを受けることもある。異国育ちの花嫁がその苦労を乗り越えて今日の幸せを築くまでに味わった苦労は察するに余りある。淡々と書かれた新聞ニュースにその思いが込められているように思った。

日豪関係の改善に寄与した最初の功労者、それは戦後日本復興の牽引車となった「鉄鋼生産」の原材料、鉄鉱石と石炭だったという。共にこの国の豊富な地下資源であった。両国は1966年以来対貿易相手国の一位にあるという。時代と共に輸出入のニーズは車やビーフなどと変遷しても、両国間の政治・経済は更に発展し、安全保障面でも良いパートナーシップを構築しているという。でも、物が親善関係の主役では決してあるまい。憎しみも悲しみも乗り越えた両国民の心の交流、それを築き上げた先輩たちのご苦労こそ「主役」であると私は言いたい。

昨年蔓延した「SARS」が私たちの「金婚式想い出の旅」を急遽カナダからこの国に変えた。お陰で私たちは羊年のこの年、この国で多くの想い出を作った。コアラ、カンガルー、羊、フェアリーペンギンなどとの清々しい出会いに始まり、旅の終わりに私の平和ボケを揺さぶったあなたの鮮烈なパンチに出会う。私の「危機意識開眼の旅」でもあった。次の旅でもし誰かに、目元で「日本人」と見破られることがあったら「私はもう、私を許さない!」という気持ちだ。どこかで私が再びあなたに出会えたら是非お礼を言いたい。

参考資料:1:畠中篤(特命全権大使)日豪関係について講演、5月1日、於:Pricewaterhousecoopers  日本企業部主催、「トワイライト トピックス」 Southern Sky Vol.8 No.78 ,   2003.June P.17

2:八重桜会主催大同窓会(日時:2003年3月5日、於:ホテルグランドハイヤット)
ニュース、Southern Sky Vol.8 No.78 , 2003.June P.17

3:伊藤伸平著 「旅大陸オーストラリア」凱風社、19982.13 初版第一刷

4:オセアニア交流編「ワーキングホリデーinオーストラリア」三修社 1996.11.15  第一版

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No.3:ヨーロッパとは何か…増田四郎先生の著書を読んで

neuschwan Mさんは西ドイツの女子学生だった。あるパーティで出会った時私は「何を勉強しているの?」と尋ねた。日本文化ですなどと、女性らしい答が返ってくることを期待して。「カガクです」「えっ?化学(ヒェミー)?」デュッセルドルフのアヘマ(化学品見本市)で多くの女子学生に出会った私は、先ずは『化学』と想像した。

「いや、科学(ヴィッセンシャフト)です」と彼女は言う。「どうしてヴィッセンシャフトなの?」畳みかけた私の質問に「日本の科学・技術文献をドイツ語に翻訳する仕事はとても良い仕事です」。彼女はためらいもなく答えた。昭和50年代のある夏の出来事だった。この答えに私は失恋の思いだった。

「お師匠さん(ドイツ)が何を言うのだ」と。明治以来わが国はドイツから多くのことを学んで来た。法律、哲学、音楽、文学、医学、機械工学、電気工学、化学工学、製鉄技術、鋳造技術と、わが国近代化のこの百三十年の歴史の中で、ドイツの功績は枚挙に暇がない。勿論ドイツに限らずオランダの医学も、イギリスからは医学、鉄道、郵政、海軍制度、造船技術を学び、フランスの陸軍制度も学んだ。ヨーロッパは全てお師匠さんの国だ。そのお師匠さんの国からやって来て日本語を学び、日本の科学・技術論文をドイツに紹介するという。私はこれを聞いて「さすがに出藍の誉れ高い日本」と喜ぶ気にはなれなかった。

戦後をみても昭和28年以来約千名もの学者、研究者が「アレキサンダー・フォン・フンボルト財団」の奨学金のお世話になって、西ドイツの大学、研究機関或いはヨーロッパ各地で自然科学、人文科学、工学を学ばせて貰ったのだ。日本はまだ(平成2年当時)そのような形で世界に貢献しているとは聞いていない。そんな日本が本当にドイツを抜き、ヨーロッパを追い越したと言えるだろうか?と。

この出会い以来私は、ドイツとそれを育てたヨーロッパへの関心が一層強くなった。そしてある日、A書店で眺めていた堀米庸三先生の小論文集の中に次の一節を見出した。「私は大学院学生の入試問題に『ヨーロッパ史が、ギリシャ、ローマ史から書き始められている理由は何か?』という出題をした。満足な回答は得られなかったが、この問題に正解出来た人は増田四郎先生の『ヨーロッパとは何か』を読んだ人である」という下りがあって、うなずくところがあった。答えを明かせば「ヨーロッパとはギリシャ・ローマの古典文化の伝統と、キリスト教と、ゲルマン民族の精神と、この三つが歴史の流れのどこを切っても絡み合っているもの」であり、こう答えるのがヨーロッパ学生の常識だというのである。

では日本にとってヨーロッパとは何だろうか?私は「かってお師匠さんの国、今後もなおお師匠さんであり得る国」と答えたい。私は劣等感で言っているのではない。理由は
①日本は今後も西欧文明を基調として国家、社会を形成するであろうし、その限りにおい   て、日本の未来社会の原型はヨーロッパにある。
②明治以来学び続けて来た西欧文明の理想像は「和魂洋才」。しかしその「洋才」が、あまりに も表面的なハウツウに留まり、バックボーンであった「洋魂」を学び切れなかった という反省。
こうして今日、「洋才の歪」のみが突出しているように思われる。これを解決するためには、もう一度 謙虚にヨーロッパ精神を学ぶべきではないか?と。

増田四郎先生が著書にいみじくも述べているように「明治百年の反省として、日本の近代化の意味は、端的に言えば、シャッポーをヨーロッパに取り替えて、形をまねただけで、社会生活に於ける規範意識の近代化という面においては、殆ど近代化されていない」と。

では近代化の遅れている「社会生活における規範(哲学で、判断・評価・行為などの基準となるもの)意識」とは何であろうか?

私は一口で言えば民主主義の基本条件の認識であろうと思う。要するに「個の尊厳を認め、同時に共同社会の規範を尊重する」こと。「自由」と「責任」と言い替えることも出来よう。今日わが国では、個人と国家とを問わず自分さえ良ければよいとする風潮が満ち溢れている。湾岸戦争を契機に噴き出した貢献という概念は小さくは近隣社会で、大きくは国際間で実行されるべき課題であり、その遅れを取り戻すため、もう一度謙虚にヨーロッパ精神を学ぶべきではないかと私は考えている。

わが国近代化のこの百三十年のお師匠さんは、前半に於いてヨーロッパ諸国であり後半、即ち、第二次大戦後のお師匠さんはアメリカということが出来よう。

しかし、今日の経済的繁栄の原因を分析して考えれば、その遠因はわが国が明治以来「富国強兵」と「殖産興業」を旗印とし、官民挙げて近代国家建設に向けて結束して来た成果であり、殊に、ヨーロッパに学んだ「教育制度の近代化」に負うところが大きい。新しい技術や設備は第二次大戦後のアメリカに負うとしても、それを受け入れた日本人の勤勉さ、労働力の質の高さと均質さ、言い替えれば、教えを素直に正確に理解し、更に工夫改良を重ね、目標達成の意欲を持ち、技術、技能を我がものとして来た人間教育の基礎の構築は、ヨーロッパのお陰といって決して過言ではあるまい。

こうしてわが国は質の高い、より経済性のある種々の民生品を生みだし世界に供給して経済基盤を強化して来た。しかし身近に発生している経済摩擦や文化摩擦を考えると、我々が学んだものは、ハウツウ的なもの、物事を実利的、功利的に見るいわば皮相な教育に終わったのでは?という反省である。我が国は「和魂洋才」という言葉を作り出し近代化を急いだ。洋魂より「洋才」に主眼を置き理科・工科系により重点を置いたとしても、哲学も法律も文学も経済も、総じて言えば洋魂を形成したヨーロッパ文明全般を学んだ筈である。しかし現実を見て感じる事は知識中心の「洋才」に終わったように思われる。

「ヨーロッパとは何か」のテーマに対する私の答「お師匠さん」に対して、「パートナー」とする意見もあるであろう。しかし私は、我々が今後とも西欧文明を基調とした政治、経済、社会様式を追求して行く限り、その原型はヨーロッパ精神にあると言いたい。そのために、もう一度初心にかえり「洋魂」を学ばねばなるまい。

洋魂を十分に学び得なかった理由の他の一つは、我々の世代が西欧文明を主として「活字」から学んだことにもある。しかし今日経済のグローバル化に伴い人の交流、往来は活発であり、洋魂を肌で学び取る機会に恵まれている。私の思いは、今後は若い世代に期待するところである。  (原作昭和63年7月、平成2年10月追記)

追記:和魂、すなわち日本人の精神構造の、バックボーンはインド、中国、韓国など東洋の主要国の文明、文化が絡み合って形成したことは自明である。ヨーロッパとは何か?に対比して、東洋とは何か?を私はもっと学ばねばならないところである。(2005.04.16)

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