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2005年4月18日

2005/04/18

6:悟りとは?

喜寿を迎えたからと言ってそう簡単に悟れるものではない。私は相変わらずの俗人、027buruder

もろもろの欲望が渦巻いている。

孔子は「従心、即ち70才となってからは、自分の欲するままに言動しても、決して軌道を外れることはなくなった」と言っている。私はとてもこの論語(BC450ころ成立)のようには行かない。2500年前と違って現在は余りにも誘惑が多いのだ。これが悟れない最大の理由だと自己弁護している。

しかし私もトシ相応に悟ったことがある。大げさに言っただけで何のことはない。「悟りとは何か」という悟りである。

私流の解釈によれば「悟り」は、第六の感覚器官による「直観」ではないか?と。通常何かを知ろうという時、五官を通じて外界の物事を視、聴、嗅、味、触し、その五つの感覚で知覚する。しかし「悟り」は、これらの感覚では開けない。この「直観」によって、推理によらず、直接的・瞬間的に物事の本質を捉えることであろうと。私は鈴木大拙著「禅と日本文化」を読んだ時この認識に至った。但しこの本、平易に記述してあり私だけの「悟り」と自慢出来るようなものではない。

禅と日本文化」の中に「禅とは何か」について宋代の五祖法演(1104没)の説話を紹介している。「人が禅とはいかなるものかと問えば『禅とは夜盗の術を学ぶに似たり』と答えるであろう」と。

話はこうである。ある夜盗の息子が、最近弱って来た父親を見て後を継ぐことを決意し、父親に夜盗術の伝授を頼む。

父親は息子を伴い、さる富豪の館に赴き、息子に蔵の中の長持(ながもち)に身を隠すことを指示する。息子が身を隠した途端、父親はにわかに施錠して「泥棒!」と騒ぎたて、自分だけ家に逃げ帰る。

取り残された息子は父親の態度にいたく立腹するが、やがて抜け出す方法を考え出す。ようやくにして家にたどり着いた息子は父親に恨みを言う。

「よく抜け出せたな。どうやって抜け出したのだ?」目を輝かして問いかける父親に、先刻までの怒りも忘れて息子は、得意げに語る。「鼠のまねで音を立てて家人を呼出し、長持が開かれた途端飛び出して来た」と。

父親は最後に言う。「もうお前には伝授する何物もない」と。中国流の、否、我が国にも通用する「悟らせ方」であろう。

朝日新聞夕刊(041112)に京大名誉教授上山春平先生が「哲学は素人の学問である」と題して、

「哲学は素人の学問だと思う。素人であることを大切にし、偏見を持たず、常に疑問を発して問題状況を作り出すのが(哲学の)役割。古典を読み解くことも必要だが、問題意識を広げ、深める情熱が大切である」と書いている。

素人なるが故に疑問百出の私である。その意味では私も「哲学する資格者の一人」と言えそうである。

しかし先生のいう「哲学は素人の学問…」の、真意は何であろうか?では哲学を専門とする学者の真の役割は何か?と疑問がわく。これまで哲学といえばヨーロッパの、それも圧倒的にドイツが強い。そろそろ、日本発の「哲学」を生み出して欲しいというのが私の思いである。(050418)

      

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