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2005年4月19日

2005/04/19

7:ヘーゲルの弁証法雑感

07suou280 中埜 肇著「ヘーゲル」の中に次の表現があった。

「ヘーゲルは後に妻となる恋人マリー・フォン・トゥヘルへの手紙の中に、自分の結婚に関する基本的考えとして、『…私に対するあなたの愛とか、あなたに対する私の愛とか言うように分けて言うことは区別を持ち込むことになって、私たちの愛を分割することになります。愛は私たちの愛でしかありません。…区別することは止めてこの一体性を固く守りましょう。…』と書き記している。区別を否定するという考え方の中には、すでにヘーゲル自身の中では完成していたいわゆる弁証法的な思考が顔を覗かせていると考えることができるであろう。また、『結婚の客観的出発点は、二つの人格の自由な合意であり、もっとくわしく言えば、めいめいの自然的で個別的な人格を一体性の中で放棄して、一つの人格を形成しようということについての合意である。…』」と。

この一節は私に、ヘーゲルの弁証法が何となく分かった気にさせる表現である。しかし誰もが結婚観をこのように考え得るとは限るまい。しかし私は、もしこういう形で結婚できたら幸せであろうと思う。

その後私は松原泰道著、禅語百選の「本来の面目」を読んだ。そこに次のような表現があった。

松原師は「無学ゆえに対立二見を離れた絶対知の知恵が素早く開発出来る」と書いている。我々は二者を対立させて選択しようとするところに迷いが生まれる。まず合の段階にまで高め得れば、迷いはないということではなかろうかと。ではいかにして合の段階に持ち込むか?松原師は「対立分別の思考的迷雲を払いのければ『本来の面目(真実の自己)』との恋いが適えられる」と言う。

技術者として私は、個々の技術を比較、分析してその優劣を評価する業務を担当したことがあった。その際なまじっかな知識が災いして、両者の捨て難い長所に目が奪われ、評価に迷うことがあった。私はある時ふと比較・分析・考察というこの帰納法的アプローチにこそ問題があるのではないか?対象をもっと大局的に見る演繹法的アプローチも併用すべきことを悟る。

とかく我々は相対的認識を好む。例えば善と悪、生と死、有と無、美と醜、喜と怒、哀と楽など対立、比較して択一に持ち込もうとする。

松原師は「この相対的認識を『両頭』と言い、禅的思索で(悟りは)両頭倶(とも)に裁断して一剣天に倚(よ)って寒(すさま)じという。相対的認識の欠点が相対的なところにある以上、この認識方法と態度とを捨てなければならない。これを空ずる、殺しつくす、死に切るなどという」と書いている。

この考え方を「ヘーゲルの弁証法と同一だ」などといっては専門家に笑われるかもしれないが、ヘーゲルの「一体性の中で放棄する」と、両頭を「空ずる」、「死に切る」となどといういう発想とは極めて類似しているように思われた。

西洋哲学の真髄は「思索の贅肉をそぎ落とし、骨を開き、最後に残った『髄』のようなものではないか?一方東洋哲学は、「直観から生まれた悟り。プロセスはない」。共に超単純化、超簡素化されており、両者よく類似しているように感じられて面白かった。(05.04.19

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