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2005年4月26日

2005/04/26

8:パーティ考

或る年の年末、私は大阪中之島のRホテルで開かれたクリスマスパーティに出席した。賛美歌を歌い、親衛隊よろしくペンライトを振りかざして若者気分に浸るなど、友人知人との楽しい語らいの一時を過ごした。

パーティに出席すると、いつも「日本人と国際人」という本を思い出す。著者は朝日新聞社時代フランス駐在員であった柴田俊治さん(平成3年当時朝日放送専務)だ。

この本を読んで以来、私はパーティに出席した際は努めて新しい知人、友人を得るように心がけている。今日も4,5人の友人を得た。心理学者のN先生、エコロジーを法学から追求しているY先生その他の方々であった。私なりの努力だが、未知の人と隣合った場合には必ず挨拶を交わすことにしている。タイミングは目が合った瞬間だ。ところで新幹線の隣席の人と挨拶を交わすものかどうか、これには私も迷うことが多い。隣人は一人静かに旅を楽しみたい、話かけられることは迷惑かもしれないのだ。明らかにパーティとは異なる環境である。

柴田さんは「パーティは、知らない人同士が知り合いになるために開かれるもの」。だからパーティではそんな心遣いは無用ということだろう。フランス駐在員時代そう教えられ、身についていた柴田さんも、日本に戻って来て外国の大使館などからパーティへのご招待を受けたとき、つい日本人的感覚から「どういう趣旨のパーティですか」などと質問して、「パーティを開くのに趣旨が必要ですか?」と逆襲されることもあったという。勿論、時には「誰それさんが来日するので歓迎パーティを開く」という趣旨の説明もあったそうであるが。

そのクリスマスパーティにも十数名の外人客がいた。私は言葉の問題もあり彼らを敬遠して主として日本人同士のおしゃべりを楽しんだ。しかしこの時相手も「今日は、素晴らしい出会いが出来た」と喜んで呉れたかどうか?我々は「良い出会い」を言う前に、人と会うことに何の準備も演出もなく、全く無防備のことが多いのだ。

朝日新聞社の松山幸雄さん(元、取締役、論説主幹)がアメリカ特派員時代にアメリカから送ってきた昭和48年6月9日付き記事、「急落を続ける米の日本人株」は、大変印象的記事だった。

「米国では人と会うことは戦いであり、勝負である。それなのに日本から来る大臣、局長、社長、頭取、委員長から課長まで、相手を感心させたり楽しませたりするための何の準備もなく、日本の雰囲気をそのまま自分の回りに持ち込み、日本的発想でダラダラとしゃべりまくる。日本人は退屈だから会ってもつまらないと、この頃財界上層部の人達が愛想尽かしを始めた…」と書く。

後日アメリカ総局長となった松山さんは再び同様の警告を発している。

「米国の政府高官や経済界の要人への紹介を依頼され、私が依頼の労をとったとき、後でそのアメリカ人から決まって苦情が来る」という。「ミスター松山が紹介した男は何のために私の所へ来たのだ?」と。要は売り込み下手ということだろう。「私はこの分野の専門家である。お前さんも同じ専門家と聞いたので、大いに意見を交換しようと思い私は日本からわざわざお前さんを尋ねて来たのだ」とでも言ってくれれば、アメリカ人は喜んで会ってくれるというのが松山さんの言い分だったと私は記憶している。

識者が時々指摘するこの種のことは、文化の違いというよりビジネスの基本として反省しなければなるまい。では本日のパーティで私はどの程度に出会いを演出出来たか?意欲程には成功しなかったようだ。

木村尚三郎先生(当時、東大教授)の「(パーティは)感情の傷口を癒し合う効用」という説を読んだ。昭和61年夏頃の、「日本人の繊細さ」に関する新聞評論であった。「日本人は人の目を見ながら、相手の感情を読みながら話を進める。ドイツ人は言葉を大事にしながら話を進める…」と。繊細な神経を持つ日本人は相手の顔色、表情を気にしながら言葉を選ぶということだろう。何せ「目は口ほどに物を言い」という諺もあるのだ。

他方、ドイツ人の言葉へのこだわりは意志の疎通をより完全に、より確固たるものにしていることも事実であろう。しかし反面、感情を無視した言葉の激しい応酬も当然ながらそこにあり、必然的に感情を傷付け合う。野蛮さや危険性と隣合わせの「言葉へのこだわり」と言うべきであろう。そういったやりとりの後に開かれるパーティには「感情の傷口を癒し合う効用がある」というのが、木村先生のお説であった。そこまで読んで私は、商談でドイツを訪れた友人S君の話を思い出した。彼もまた、この言葉優先の、そして感情を無視した彼らの「文化」を経験したというのである。

文豪ゲーテの臨終の言葉として有名な「メヤーリッヒト(もっと光を)」。「病室が暗かったと言うより、彼の目が黒内障に冒されて光を失いつつあったことが原因である」とは藤森速水先生(元大阪市立大学、故人)の説であるが、S君は言う。「ドイツのある製鉄所を訪れ商談はいよいよ佳境に入った頃だった。陽の短いドイツではもう部屋の中がすっかり薄暗くなって来た。だが誰も点灯しようと言わない。痺れを切らした私は『もっと明るくして欲しい』と提案した。返ってきた言葉が『明るいときから話し合っているので、お前さん達の顔はよく分かっている』と言った」と。言葉を大事にする国民の面目躍如というところだが、その凄烈さに驚く。

「たかがパーティなどと侮るなかれ」というのが私のパーティ考である。(原文:平成3年1月)050426

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