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2005年4月27日

2005/04/27

11:「シュ・ハ・リ」ということ

momiziaoi テレビで柳家こさん師匠(故人)が芸事の世界では「守・破・離」が重要であると説明していた。この言葉、あまりにも直截的で好きな表現ではないが、内容は実に含蓄に富み、共鳴するところがあった。

師匠は言う。「芸事は、先ず師匠の教えを忠実に守って吸収すること。次いでその教えを破って乗り越える努力をすること。最後に師匠から離れて独立すること。このプロセスを踏んでこそ芸事は上達する」と。この「独立」は、単に精神的な独立ではなく、行動を伴うものと私は理解した。ところでこの教え、芸事全般に当てはまるものであろうか?

朝日新聞平成3年10月29日号の広告に、高島屋百貨店(大阪)で開催される「第24回日本いけばな芸術展」の案内があり、何と193流派名が並んでいた。見た瞬間に疑問が湧く。生け花は何故こうも流派が多いだろうか?お茶の家元は確か「十家*」程度と聞いたように思うのだが。ふと私はこの三つの疑問は根っこで繋がっているのではないか?と考えた。先ずお茶とお花は文化構造的に恐らく「似て非なるもの」であろうと。

茶道と華道は日本文化を代表する双璧であり、よく「お茶とお花」というように並べて表現され、以前は結婚(嫁入り)前に習得すべき芸事、嗜み、楽しみ、或いは教養として広く愛されて来た。そのような需要を効率よく受け入れて普及させる制度として「家元制度」があり、更に上を目指して芸を磨き、人を指導したいという向上心のある人には「許状制度」が寄与して来たものと私は思っている。

お茶は、茶道具というハードとお点前というマナー(ソフト)とを巧妙に組み合わせ、洗練され完成された様式美を作り上げている。その完成度は弟子、師匠は勿論、家元でさえも、もはや自由にその約束ごとを変更出来ない程の極致美に達しているように思われる。

お茶の特徴はハードとその約束事の多さであろう。この特徴がいわば「特許性」というような性格を持っていると私は見たい。即ち「ハードを主体としてソフトを組み合わせた各流派ごとの約束ごとで他流派との明確な差別化を図り、それによって自流派の存在領域を主張し、分派や亜流の出現を防御しているのであろう。

こうしてお茶は芸事から、茶道という芸術に、社交文化としては、一期一会という哲学的人間関係にまで昇華している。

他方お花は「花材(樹木も含めて)・花器を利用して美的空間芸術作品を作成するためのソフトとノウハウ」と言いたい。習熟すれば、空間をキャンバスに見立てて、素材の花を絵の具とし、鋏を絵筆に見立て、創造性豊かに自己表現することも出来る。作品は装飾効果と共に安らぎのヒーリング効果も持つ。

ただ、材料の花や木(枝)は形を持つとはいえその種類、枝振り、開花の程度など千差万別であり一定の形を持つハードとは言い難い。生け花として花の種類、組み合わせ方、空間的構成法、精神などを細かく指示・指導・規定して来たものと思われるが、ハードの少なさが自流派の特徴を正確に表現・主張出来ず、亜流、分派を許す余地を持つ。これこそが宿命というべきであろう。しかしお花は、そういったソフトさが人の創造性を刺激し、「守・破・離」へと人を誘うのではなかろうか。

森谷教授は「18世紀後半には京都や大阪から江戸に下った宗匠が何流、彼流と宿札を打った」(花物語、武庫川女子大、森谷教授、産経新聞)とされており、当時既に多くの流派が存在していたことが伺われる。私は江戸が遠隔地という事情もあって家元の管理、監督が及ばず、次第に分派が増えたのではとも考えた。

お茶もお花と同様の道を辿って江戸で普及したものと思われるが、分派活動が見られたかどうか私は知らない。

芸事という言葉をどう定義するかは知らないが、一応、師匠からの習い事全般を指すとしよう。そんな中で、芸事を趣味として楽しむ分には「守・破・離」などの必要もなければ、それにまつわる悩みもない。しかし問題は、職業として取り組み或いは芸術的創造意欲を持って立ち向かう野心家たちの場合だ。

小さん師匠が取り上げた例は剣道であったが、芸事でも勝敗の伴うものは「強さ」という明確な尺度を持つ。師匠といえども負けた場合、「もうお前に授ける何ものもない」として、「離」のお膳立てが出来よう。このように明確な尺度を持つものはむしろ「文明」に近い。しかし芸事或いは習い事は一般に文化であり客観的、定量的評価の物差しを持たない。「人間精神の表現としての文化は、厳密な意味で、類似な精神の持ち主にのみ伝え得る」と言われる。志を同じくするものの共感と理解が文化を支えるのだ。

そういった分野での「守・破・離」には恐らく感情的しこりを伴う。プロを目指すものの第一の関門であろう。弟子が「守・破・離」というプロセスを経て師匠から円満に巣立つためには、師匠の理解とお膳立てとが必要ということだ。

私はふとこの「守・破・離」は芸事に限らず会社経営者、家業世襲者等にも当てはまる哲学かも知れないと考えた。大阪商人の「のれん分け」は今様のフランチャイズ方式、即ちノウハウの指導と見るが、中には主人からの「守・破・離」もあろう。私には後者も多分にあったのではないか?と思う。何故なら、「なにわの町の繁盛はそういう凄さがなければ生まれなかったに相違ない」と思うからである。

*インターネットで調べた主な茶道家元数:表千家、裏千家、武者小路千家、江戸千家、石州流、宗和流、遠州流、上田宗箇流、不白流など。(050428

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10:「俳句第二芸術論」からの脱却

shinryoku ややオーバーな表現だが、あの日のシーンは確かに私の物の見方、考え方、いや人生観までも変えたのだ。その意味では私の「開眼」だった。

かれこれ15年程前の事。これぞ武蔵野を象徴する並木かと眺めていたテレビ画面中の巨木が、見事盆栽に変身した。そうか!人は盆栽に大自然を写し込み、己の自然観を表現していたのか。私は小学校で「箱庭は方寸に大自然を写し込む」と教わったが、当時その実感はなかった。

文明の利器テレビが手伝ったこの開眼は、ふと俳句もまたこの盆栽と相通ずる何かを持つのではないか?季語はテレビのズームアウト機能のように空想の翼を無限空間に広げて、語数の不足を補うのだと。次の瞬間、私は遥かな青春時代の想い出「俳句第二芸術論」へと飛んで行った。

時は昭和21(1946)、雑誌「世界」に連載された「第二芸術論」論争は、我々に驚愕と共に深い共感を覚えさせた。第二次世界大戦中の物質的窮乏と精神的抑圧からようやく解放されつつあった時だった。高校生の私は数カ月にわたって展開された自由闊達な誌上論争をむさぼるように読みながら、古い伝統文化の存在価値までも破壊し尽くそうとするこの論文の威力と時代の変遷とをひしひしと実感した。論文についての私の記憶違いは、お許しとご指摘を頂くとして、私の思い出を述べたい。

片や桑原武夫東北大学助教授(のち京大教授)、相手方論客の名前は思い出せないが、複数の論客であったかもしれない。

桑原先生曰く「現代俳句は第二芸術である」。では真の芸術とは何か?「散文、なかんずく戯曲である。散文の持つ表現力、そのスケールの大きさこそが文学に芸術性を与えうる。現代俳句は表現力の不足を連作?或いは低回趣味?(句題の回りに複数の句を並べる)で補い、更には俳壇という生温い家族的一派を形成して作品を評価しあう」と、その啖呵は小気味良い。対する論客の反論は例えば「表現スケールの大小で芸術品の優劣を論ずべきではない。描かれた林檎は、たとえそれが半分であっても、色艶から芳醇な香りを、更にはたわわに実る林檎園までも、我々に想像させ得る…」と言ったような表現もあった。

今日(平成元年12月)、芸術の個性化、或いは多様化は当然のこととして受容されており、桑原先生のこの論文が今更感銘や衝撃を与えるものではあるまい。しかし第二次世界大戦終了直後の当時は、思想・信条はもとより趣味・嗜好に至るまで未だ表現の自由は乏しかった。私は当時生意気盛りの18才、既成の権威や制度がガラガラと音を立てて崩れて行く様を小気味よく感じる「時代の子」であり、当然のこととして桑原説を支持した。折角、郷土の短歌結社「H」の同人という父をもって生まれた私だったが、この出来事が後遺症となって終生短歌を、そして俳句も嗜むことがなかった。

しかし冒頭の開眼が、逆噴射ロケットとなって私を桑原新星の引力圏から脱出させ、俳句の評価を軌道修正した。

とはいえ感性を武器とする文学、殊に感動を短詩形に凝結さす詩歌の世界に挑戦するには私はもう遅すぎる。作品を生み出すには「瞬発力」という巨大エネルギーが要る。やがて還暦の私。安易に私の趣味などと呼んでは、長い歳月の精進努力で醍醐味を味わう境地にまで高め得た人に失礼というものだ。

と思いながらも、私とて燃焼出来る対象を見つけたい。問題意識をアンテナとして、経験を盛り込んだ地図を携えて、生ある限り「発見と感動の旅」を続けたい。幸い、鈴木三重吉の「赤い鳥」時代の少年だ。今、私の旅は始まろうとしている…。

定年(今は翔年というそうだが)間際になって、こういう雑文を書き初めた私はある日、郷里の歌人Iさんに纏めて貰った父の歌集を入念に読み直し、そこに「第二芸術」への言及を発見する。

「一時、第二芸術論が台頭した。尤も之は最初主として俳句に対する議論であったが短歌も一時之に巻き込まれようとした。しかし今日ではもはや問題外である。日本語の持つ美の極致は叙情にせよ、叙景にせよ、短歌の中にのみ発見することが出来るということに結論されて来た。また国文学者の間に於いても、従来の考証学という様な固い殻を脱却して現代に立脚した研究に移行して来たことも注目すべき現象であろう」と。

桑原先生の「第二芸術論」については60年後の今もWEB上で関連情報を見ることが出来るが、殆どが先生の著作集に基づくものであり、雑誌「世界(原本)」に遡って調査、考察したものは殆ど見あたらない。従って私の記憶を補強或いは修正する文献に行き当たらない。

で、あれば先ずは桑原先生の論文を正確に理解するところから始めたい。私のこの希望を聞いた友人Yさん(熊本大学名誉教授)が蔵書の筑摩書房版『現代日本文学全集』96で桑原先生の「第二芸術」を読んで呉れた。これも勿論桑原先生側からの情報に限られるが、以下は私がすっかり忘れていた重要な部分であり、ここに引用させて貰うことにした。

先生は俳句の芸術性を測る「試験方法」として、作者の名前を伏せた俳句15篇を並べて、作者名やその優劣を評価させた。

      1 芽ぐむかと大きな幹を撫でながら

         2 初蝶の吾を廻りていずこにか

         3 咳くとポクリッとべートヴエンひゞく朝

         4 粥腹のおぼつかなしや花の山

         5 夕浪の刻みそめたる夕涼し

         6 鯛敷やうねりの上の淡路島

         7 爰に寝てゐましたといふ山吹生けてあるに泊り

         8 麦踏むやつめたき風の日のつゞく

         9 終戦の夜のあけしらむ天の川

         10 椅子に在り冬日は燃えて近づき来

         11 腰立てし焦土の麦に南風荒き

         12 囀や風少しある峠道

         13 防風のこゝ迄砂に埋もれしと

         14 大揖斐の川面を打ちて氷雨かな

         15 柿干して今日の独り居雲もなし

先生は言う。「3・7・10・11・13などは、私にはまず言葉として何のことかわからない。私の質問した数人のインテリもよくわからぬという。これらが大家(草田男、井泉水、たかし、亜浪、虚子)の作品だと知らなければ、誰もこれを理解しようとする忍耐心が出ないのではなかろうか」。

「わかりやすいということが芸術品の価値を決定するものでは、もとよりないが、作品を通して作者の経験が鑑賞者のうちに再生産されるというものでなければ芸術の意味はない。現代俳句の芸術としてのこうした弱点をはっきり示す事実は、

「『現代俳人の作品の鑑賞あるいは解釈というような文章や書物が、俳人が自己の句を解説したものをも含めて、はなはだ多く存在するという現象』である。風俗や語法を異にする古い時代の作品についてなら、こういう手引きの必要も考えられぬことはないが、同じ時代に生きる同国人に対してこういうものが必要とされるということは、そして詩のパラフレーズ(意味内容を変えずに、難解な表現を平易に言いなおすこと)という最も非芸術的な手段が取られているということは、よほど奇妙なことといわねばならない」

と断じ、俳人の言葉遊びを痛撃した。

私は、第二芸術論の骨格となっているのは、「俳句のような短詩形では優劣の評価も芸術性の評価も難しい」という主張であると理解しているが更に先生は、表現は異なるが「俳壇という結社がいわば家元制度を作り古い伝統的形式に安住する原因となっている」と主張しているように思われる。ただ、論文発表当時、批判された俳句結社の当事者が俳句を芸術作品と主張していたかどうか、また現在はどういう認識であるか?を私は知らない。

一般に「文化は本来主観的、属人的精神活動の所産そのものであり、一般に『文化は類似な精神の持ち主にのみ伝えられ得る』と言われる。この定義から考えれば各種家元制度の存在自体は理解出来るところだ。(「文化には不断の進行が無く、前進することもあれば後退することもあり、その過去は未来を保証しない」とも言われるが、これについては別項で論じた)

さて、桑原先生が採用した評価法は先生の論文中にもあるようにイギリスの学者・批評家リチャーズの批評書(Practical Critisism, A Study of Literary Judgment )に準じたものである。友人Yさんの解説によればリチャーズの場合は、シェイクスピアから無名の詩人の作品までを引用して評価の対象とした際に、10行程度から30行程度を引用しており、当時新批評(論)として評価されたものであるという。

その特徴は、従来行われていた「作者の伝記や心理、育った環境・文学史上の地位などへの関心」を排除して、「それ(引用部分)自体が独立した一個の物体、言語による構造物としての文学作品を主に問題にし、その中に見られる言語の相互関係を考察する」ということに主眼を置いて新しい批評手段として確立したそうである。

15年ほど前、テレビで「開眼」した私は、いまも俳句は立派な文化だと信じている。ただ、「文化は本来土着性を有するもの。従って『文化は土の香りの届く範囲で評価され』、『芸術は人類共通の感性で評価されるもの』という定義では如何なものであろうか?」

原文:平成元年12月、(050427

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9:クレイジーマン

ノルマンが言ったそうだ。「彼はクレイジーマンだね」と。私が居酒屋のテーブルを離れて彼らにカメラを向けてフラッシュを焚いた時のことだった。所はフランクフルトのマイン河左岸、林檎酒で有名なザクセンハウゼンのとある居酒屋での出来事。私は仲間と一緒に市内で仕事を終えてからこの地区に雪崩れ込み、梯子してこの店に来てもうすっかりご機嫌になっていた。

そんな時胸元に絹のスカーフをまとい、ふらりと一人で入って来た細身の小柄な中年の男、それがノルマンだった。しばらく経ってから我々は、彼の席へ合流することになった。こうしてザクセンハウゼンの夜はブロークン英語で日仏合同のパーティーに盛り上がって行った。彼はフランスから所用でこの地を訪れていたエトランジェだった。

そんな出来事があって、私は仲間から「クレイジーマン」という有り難くないニックネームを貰うことになった。

ところで日本人の写真(カメラというべきかも)好きは確かに異常かも知れない。食事中と言わず、話中と言わず、まるで報道カメラマン気取りでフラッシュを焚く。撮る方も撮る方だが、撮られる方もプライバシーがどうの、肖像権がどうのと小難しい理屈は言わない。それが日本人なのだ。

そんな日本人の趣味・性向を何の抵抗もなく受け入れてきた私だが、ノルマンにクレイジーマンと言われては少々気になった。わが辞書の「クレイジー」には「熱狂した」から「気が狂っている」までの段階がある。ノルマンが私をどの段階の「クレイジー」と決め付けたか?までは確かめなかったが、私の取った行動が彼をして「クレイジー」と言はしめる出来事だったことだけは事実だ。

そう言えば、わが家でホームステイしたTのことを思い出す。高校生の息子が引き受けて来たホームステイの学生。やってきたのは鼻髭を蓄えたミネソタ大学の哲学科学生 T だった。

ある日息子は T を京都の二条城に案内する。ある美術品の前で釘付けになってしまったTに息子は言った。「そんなに気に入ったのならカメラに収めたらどうだ?」と。次々に訪れる観光客の流れを妨げるような T の行動を気にしての事だった。 T はその申し出でを、首を振って断ったという。

「さすが哲学徒だ。心眼を見開いて、イメージを脳裏に焼き付けたいということだろう」。当時私はそう理解した。しかしノルマンとの出会いがあって私は改めて問い直している。あの出来事は彼が哲学徒だったからということではなく、外国人一般の思考様式ではなかったろうか?と。

では日本人は何故にこうも写真を好むのであろうか?以下は私の推論である。

1:自然が織りなす四季折々の絶妙な景観は、花も山野も被写体として十分な価値を持っている。芸術写真などと気取らずに我々は行楽のお供に必ずといってよいほどカメラを携行する。私がたどり着いた結論の一つは日本の「四季の美しさ」である。こうして、俳句や和歌と同様な感性のレベルで人は自然と人とを対象として嗜み楽しんで来た。

2:大正時代以来普及して来た日本人の写真好きが、今日我が国に世界規模のカメラ会社やフィルム会社を育てた。精密さを得意とする日本人の職人的気質がそれを支え、この環境が一層日本人の写真好きを助長した。

3:我々はフィルム(今日ではメモリー)や印画紙にイメージを預けた時、安心してしまう心理がある。この背景には日本人の整理好き、蒐集癖などの深層心理も絡み合っているように思う。

4:ハイテク日本では最近また新たな写真文化を生み出している。写真は生活の一部で、日記、メモ代わりとなっている。小型・軽量・簡便なデジカメが「いつでもどこでもカメラ」機能を発揮して、その利用を時間的・空間的に拡大したのだ。若者を中心としたデジカメ付きケータイも同様である。こうしてこの blog も若い人から私のような老人までが発信する身近なPhotoに溢れている。

5:「プリクラ文化」の出現も新しい生活文化の誕生といえるだろう。朝日新聞(2004.12.17)は女子中高生を中心としたこの新しい文化が一千億円市場に成長しつつあると紹介している。

ノルマンがこの一文を読んだら、私一人が「クレイジー」の責任を負う必要は全くないことに気付くだろう。私の考察が「クレイジー」の本質を理論的に明確に究明し得たかどうかには自信は無いのだが…。原文:平成二年二月、一部追記。(050426

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