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2005年6月1日

2005/06/01

16:俳句の国際化はあり得るか?

kuzyakusaboten2_640_481_050601 ある時私は「画家はどうして左ききが多いのだろう?」と疑問に思ったことがあったが、まもなくその疑問は私なりに解けた。

「俳句とは、右脳(イメージ脳)で生まれたイメージを左脳(言語脳)で5・7・5の17文字に組み立てる作業である。だからいったん作った俳句を左脳がしゃしゃり出て、みだりに推敲すると右脳のひらめきを潰すことになる」。品川教授の、右脳俳句入門の書評の一部だ。その後「脳機能」についてのこの種の解説書が出はじめて、「筆を持つ画家の左手と右脳(イメージ脳)とが直結している」ことはまさに強みに相違ないと私は考えた。

品川教授はいう。「私はかねて『日本文化は右脳文化である』と提唱している。これは、日本文学が極めて絵画的描写に富むことからもわかるように、絵画的文化であることを指摘したものである。…文学では俳句という世界に類のない短詩型を生みだしたが、それが絵画的描写を生命とする詩型である。…日本文学では、感情を直接に表現することは少なく、風物に託して間接に表すのが常である。それが花鳥風月であり、それを極端に推し進めたものが俳句である。…このような日本文化の特色が、四季の変化と、それに伴う景色の変化に富む風土にはぐくまれて育ったことは明らかであろう」と。

その俳句の国際化が時々話題になる。私は俳句の国際化を云々するなら外国人は直接日本語で俳句を作るべきだと思っている。しかし現実は違う。

例えば、英語で作った俳句?の日本語訳

 「木の葉が 落ちてゆく ゆらゆらと日の光り」(佐藤和夫著から)

というような詩がある。ここには俳句が守ってきた形式美即ち「季語」、575のいわゆる7・5調の「韻律」、けり、たり等の「切れ字」が揃っているといえるかどうか。更に短詩の翻訳では原作者のニュアンスを損なうおそれも大きい。私はこれらの疑問を払拭出来ないでいる。

もともと「文化は民族、宗教が作る独特の精神構造と、国土、地方など地域固有の気候・風土が生み出す諸材料、言語で生み出した精神的産物」といえよう。

散文形式の詩や小説もこれらに該当し、すでに各国語に翻訳されて、ノーベル賞に輝いた日本文学作品もある。勿論その裏に、日本文学とその作家にぞっこん惚れ込んだ名翻訳家の存在、その努力、貢献に負うところが大きいものと思われる。

しかし、俳句は究極の短詩形であり、しかも7・5調という韻律を持つ文字文化であるために、すでに国際化の経験をもつとしても、今後発展するとは言いがたいように私は思っている。例えば、俳句を外国語に翻訳する場合の難しさは、

①5・7・5という韻律を外国人が自ら自国語で表現できるか。

②俳句の「季語」は「季節毎の自然・文化現象を、数百語の散文にも勝る『映像』に凝縮・表現してこれを巧みに17文字内に取り込み、作者と受け手がその映像を瞬時に解凍拡大して共有・共感し、短詩形の表現力不足を補うもの」といえよう。こうして俳句は更に「絵画的文化」となって完成する。俳句の豊かな表現力は季語によるものと私は思っている。

③切れ字もまた「強くいい切る形の言葉で一句の表す世界を広く表現する」という約束ごとという。外国語でこの切れ字をどのように表現するか?また、切れ字なしに短詩形の欠点をどう解決するのか?

④仮に日本語に翻訳して鑑賞するとしても、「てにをは」一つでイメージがガラリと変わるほどの、繊細な表現技術を生命とする日本語の究極の短詩型である俳句を、外国語から日本語に翻訳して俳句に仕立て変えること自体至難であり、翻訳句はもはや原作者のオリジナル作品とはいい難い。

翻訳の一般論として、外国語と日本語の単語同士で厳密に当てはまる訳語を見出すことは極めて難しく、むしろ文脈で捉えるべきともいわれている。定型とリズムを持つ短詩型にそういう配慮が果たして可能かどうか。

私はこれらの点から考えて、俳句はあくまで日本語による詩であるべきであり、俳句国際化を云々する俳人の挙げる「外国語による短詩は」俳句本来の5・7・5という特有の美しさの欠如した単なる叙景詩であり、たとえ俳句的感覚で作られたとしても、俳句と呼ぶことに疑問を感じる。俳人が俳句を世界に普及させたいという意欲や努力は分からないではないが、国際化のために自らの約束ごとを破ることはいかがなものであろうか?

明治以来わが国が導入した西洋音楽は、器楽・交響曲などの分野で今日世界のトップクラスの演奏家も育っている。これらの名演奏家の一人は自らを「表現芸術家」と称していた。けだし、名表現である。また、逆に歌舞伎などの古典的日本文化が見事外国人によって演じられ、我々に感銘を与えることもある。

しかし、句作は「表現」を主体とした文芸ではない。俳句は「言語で創造する文芸、すなわち感性と知性による言語創作活動であり、その作品である。

外国人が俳句の持つ約束ごとを守り、日本語で句作・表現するというなら、これはもう大歓迎である。その上で将来彼らが自身の新しい感覚でそこに何らかの変化を生み出すとすればそれは新しい一派として承認されるべきであろう。今日文明の進展に伴いそれに相応しい新しい季語も生まれていると聞いており、変化は当然起こるものである。(2005.06.01

品川嘉也:「考える技術」PHP文庫、1994.11.15第1版第1刷

山下一海:「俳句・その心」NHK市民大学、1990.1-3

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