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2005年6月3日

2005/06/03

17:続・俳句の国際化はあり得るか?

SEIYOUAZISAI俳人稲畑汀子さんの「ドイツ俳句の現状について」という報告が昭和62年(1987)4月16日付朝日新聞文化面に掲載されているという。私は㈱熊平製作所発行の「抜粋のつづりその47」で知った。

稲畑先生は高浜虚子を祖父に、年尾を父として「ホトトギス」を主宰(当時)する俳人である。先生はその年3月、ミュンヘン独日協会の招きで訪独し、討議、句会、講演に臨むが、記事はその体験報告である。

先生がドイツに招待された背景は、著書「俳句入門書」がドイツ語訳されて中高等学校の副読本として採用されているという知名度によったもののようである。私はその新聞記事から、私の考えが先生と基本的立場で一致するように思い、安堵もした。しかしなお疑問も残った。先ずは先生の文章を抜粋して紹介しよう。

「西ドイツでの俳句への関心は決してブームなどといわれるような浮ついたものではないことを身をもって体験した」と。

独日合同俳句会はかって名古屋にあった第八高等学校(旧制)でドイツ文学を講じたホルスト・ハミチュ氏と、実業家ギュンター・クリンゲ氏(1910生)やその通訳を担当した孝子・ツエルセン夫人等の努力で開催されたそうである。

討論会では「『俳句にとって詩形と季節感の何れが重要であるか』、『切れ字は俳句に取って不可欠な要素か』、『ドイツ語で俳句を作る場合、切れ字をどうするか』、『季節感の重要性は理解するが、日本と気候も風土も異なるドイツでの俳句に日本の季題をそのまま使って意味があるか』等々、重要な問題が次々と提起され討論された」と書いてある。

稲畑先生はこう答えている。

「定型と季題の何れを欠いても俳句として成立しないしどちらも不可欠な要素である。切れ字は必ずしも入らなくてもよいが、切れ字の心は絶対に必要である。日本語の5・7・5のリズムをドイツ語に当てはめる難しさについては、やがてドイツ語に合ったリズムがドイツ俳句の定型として定着するであろう。季題はドイツの気候、風土、ドイツ人の季節感に合った季題を選ぶべきである。ただし季題は季節の言葉であれば何でもよいのではない。日本の季題は長い詩的伝統によって磨かれ、日本人の生活感情によって裏打ちされているからこそ、適切な季題を据えられた俳句が意味深くなる。従ってドイツの季題もドイツの詩的伝統の中から選ばれるべきであろう。ものを見る目、自然に感動する心は養われ、磨かれていくものである」と。更に先生は「この意見はよく理解され、納得してもらえたようであった」と書いている。

これらの回答は私にとって極めて明快で、納得出来るものであった。しかし、先生が印象深かったとして引用されている三句中の一つ、例えば

 「昨日咲いたばかりの水仙に又雪が降る」

が、翻訳によって原作者の独創性をどこまで表出し得ているであろうか?。また、冒頭の「俳句への関心の深さは決してブームなどといわれるような浮ついたものではない」という表現を、どう読みとればよいか?という点に疑問が残った。

NHK市民大学講座(ラジオ1990-13)の山下先生は「西ドイツの俳句人口は10代後半から30代にかけて500人前後」といい、確かにブームというには当るまい。稲畑先生が俳句の国際化をどのように捉えておられるか私はよく知らないので、あくまで上記の質疑応答のニュアンスからの判断だが「…浮ついたものではない」には、「暴走の危険性はないという先生のある種の安堵感」のように私は感じた。

山下先生によれば、「世界最初の英語俳句雑誌『アメリカン・ハイク』が創刊されたのは1963年、その後アメリカの各地で同様のハイク雑誌が発行されたが、何れも会員組織によるもので、消長も激しかった。しかしアメリカン・ハイクは確実にひろまり、1974年にはアメリカ名句集というべき、『ザ・ハイク・アンソロジー』が刊行され2万部も出されたという」とある。

俳句は独特の約束ごとで成り立ち、それ故の美しさを持つ。俳句における独創性の源泉は品川教授の言うように日本の「四季」である。しかしこれは一歩譲るとしよう。外国にも美しい自然はある。だが、「形式とリズムの美しさ」は表現媒体である日本語の美しさそのものにあると私は言いたい。国際化はこういった障壁を乗り越え得るかどうかにかかっている。

以下は前編と若干重複するが、西洋音楽はうまく日本の国土に定着したではないか?と人はいうかも知れない。確かにその通りである。しかしそのためにわが国は学校教育の現場で伝統的日本古来の音階を捨て、西洋音階を採用したのである。

そして百数十年、指揮や演奏という表現技術面の技術・技能面では欧米の第一級のレベルに比肩出来るところまで到達した。だが、独創性が最も問われ、評価される作曲分野で世界的名声の日本人作曲家が生まれているといえるだろうか?

私は作曲における独創性とは「民族性、自然環境、伝統文化をベースとして、曲の構成、メロディー、リズム、楽器構成などによって独自の音色と楽想を作り上げること」であろうと。

今日、日本人独特の感性による作品も世界的に評価されつつあるが、ピアノ、バイオリン、声楽分野の演奏家が世界のコンクールで高い評価を得ている程には話題にならない理由は人的層の薄さもあろうが、審査員の耳に、今なお国際的レベルに到達したと響かないということであろうか。

ところで、俳句に、もし朗々と吟ずる吟詠分野があるとすれば、そういった表現部門での「国際化」は容易かもしれないが、日本語による俳句創造の国際化はこの例から見ても容易なことではあるまいと考える私である。(20050603

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