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2005年6月5日

2005/06/05

18:天の時地の利人の和

ryukyuutukimisou 先月(2005.05)同窓会に出席した折、昨年完成した佐賀城本丸歴史館を訪れた。城内地区の遺構を忠実に復元した建造物には明治維新期に活躍したこの地の偉人の業績が顕彰・展示されており、見ごたえのある見事なものであった。90名ものボランティア案内係を擁するというこの歴史館で、私は約2時間にも及ぶ詳細な説明を受けた。

ところで近代日本の黎明期「明治維新」を成功裡に推進した「薩・長・土・肥」の肥が肥前の国、佐賀である。「文明に明るい幕末の名君」といわれる鍋島藩第10代藩主鍋島直正の指導もと、明治時代の外交、内政、教育、司法などをリードした偉人を輩出したのだ。

大隈重信(内閣総理大臣・早稲田大学創設)、

江藤新平(初代司法卿)、

大木喬任(たかとう)(初代文部卿)、

副島種臣(たねおみ)(内務大臣・外務卿)、

佐野常民(つねたみ)(大蔵卿・農商務大臣・日本赤十字社創設)、

島 義勇(よしたけ)(北海道開拓、札幌市街の建設)

(詳細は文末のHP「佐賀の群像について」を参照されたい)

表題「天の時、地の利、人の和」の出典によれば「天の時は地の利に如(し)かず地の利は人の和に如かず(「孟子‐公孫丑下」による)」とあるがここで私は、本来の意味と少し異なる使い方をしていることを許して頂きたい。

では当時、佐賀は何故にこうも人材を輩出し得たであろうか?その原因の一つはまさに「地の利」であり、その地の利に育てられた人材が明治維新という「天の時」に遭遇し活躍したと私はいいたい。

佐賀藩は本邦西端の雄藩(35万7千石)として、西欧文明の流入窓口長崎までを支配していた。即ち、中近世、龍造寺、鍋島氏が現在の長崎を含めた肥前の国(佐賀、長崎)を支配するに至り、長崎と江戸を結ぶ長崎街道の要衝佐賀に居城を築く。先ずは恵まれた立地であった。この間1641年鍋島勝茂時代から、1868年(明治元年)の長崎警備解除まで黒田藩と一年交代で警備役を仰せつかる。

この環境のもと、英邁な藩主鍋島直正(閑叟、1814~1871)は自らしばしば長崎に赴き、同地警備の大任を担い、この間の見聞から海外文明の移植の重要性を痛感する。兵器の改良、反射炉の建設、大砲の鋳造等に意を注ぎ、藩内に医学館を開設(1834)、これに蘭学寮を併設する(1851)等、医学、蘭学を奨励し、学者を優遇した。当時、現在の佐賀市内にあった蘭学寮が所有する蘭書(欧米書)は732冊にも及び、福翁自伝中の「緒方洪庵の滴塾の学生が10部足らずの原書を皆で筆写して学んでいた」という回顧と比較して、如何に膨大な情報を有していたかが分かる。その内容は次のようであったという。

兵器・大砲書:155冊、文法・詞文:101冊、度学・算術学:88冊、医学:72冊、化学(分離書):48冊、船学書:35冊、理学書:32冊、天文地理書:26冊、雑書:175冊。

明治5年(1872)、明治天皇は「学制」を頒布される。その初代文部卿が佐賀藩出身の大木喬任であった。私は帰郷の折り時間をみつけて「大木公園」を訪れ静かに遺徳を偲ぶ。小学校1年生の最初の遠足先は大隈重信の旧宅・記念館であったが、それに比べてこの大木公園は今でも淋しい。しかしこの歴史館の完成で業績の知名度は格段に上昇したものと思う。

大木らは「国家の、以て富強安康なるゆえんは、国民教育にある。旧来の四書五経の暗唱などで、どうして海外と相並馳(あいへいち)しえようか」と再三建議し、ついに学制頒布に漕ぎ着ける。その「学制」と同時に布告された「学制被仰出書(がくせいおおせいだされしょ)」で、明治天皇は「学問は身を立てるの財本(もと)」であり、人々は学問によって「その身を立て、その産を治め、その業を昌(さかん)にしなければならぬ」と諭されたという。こうして我が国の学校制度が発足する。

これより先、天皇は再三にわたり、廃藩置県(明治4年7月14日)で任を解かれた華族たちを召見して「四民の上に立ち、衆人の標的」となるため、「眼を宇内開化の形勢に著(つ)け、有用の業を修め、或いは外国へ留学し、実地の学を講ずるより要なるはなし」と説得された。

この情勢の中、佐賀藩知事を辞職した鍋島直大(第11代藩主、1846~1921)は、直後の明治4年(1871)11月、岩倉具視を特命全権大使とする米欧視察団(46名)と共に英国に留学し自ら範を垂れる。このとき志を同じくした華族、士族留学生は59名に及び、津田塾を始めることになる満7才の津田梅子や、のち大山巌の妻となる山川捨松ら5名の女子留学生も含まれていたという。

英国に留学した鍋島直大は明治7年の佐賀の乱に一時帰国するも再び渡英。11年7月の帰国まで前後約8年の長きにわたって留学、駐在する。その後13年特命全権公使としてイタリア駐在、15年帰国後は外務省御用掛りとなり、爾後、式部長官や宮中顧問官等の要職につき、また、国学院大学院長その他の学協会会長を歴任する。

岩倉視察団の留守番役となった大隈重信(1838~1922)は明治新政府の総理大臣など数々の要職に就くが、その間明治15年10月、東京専門学校を創立。後の早稲田大学である。総長就任は明治40年4月。業績はインターネット内に詳述されており、略記に留めた。

佐賀藩出身の漢学者久米邦武は、岩倉視察団に随行し、その公式報告書「特命全権大使米欧回覧実記」の実質的著者として有名である。その格調高い漢文体の美しさ、優れた洞察力と見識は独自の的確なコメントをその随所にちりばめ、報告書をして明治日本の記録文学の一大傑作とさえ言われるまでのレベルに高めているという。

今日この書は我々にも米欧諸国に対する彼らの驚愕と衝撃、感動と憧憬までをひしひしと伝える久米は明治21年帝国大学文科大学(東京大学の前身)教授となり、後早稲田大学に移り大隈重信の開国50年史の編纂、「鍋島直正公伝」等を著す。今日、東京目黒駅近傍に

近代歴史学の祖ともいわれる久米邦武と、近代洋画の先覚者となった子息久米桂一郎を記念した久米美術館がある。

佐賀藩のこの恵まれた環境は、上下の士気を大いに高め、「人の和」も自ずからなり、人材雲のごとく輩出したともいわれる。

しかしこの流れは、ペリーの浦賀への来航(1853)の頃から一変し、幕府により1859年神奈川、函館、長崎が貿易港として開港され、更に1867年兵庫も開港。その拡大と共に佐賀の「地の利」は終わる。

今や日本全土で日々起こる経済的地盤変動の中に「地の利」も変動する。平成2年8月7日の朝日新聞夕刊は、「やがて平成6年(1994)眠らない新空港が完成する関西は、空の地図の書き換えによる政治経済の流れの変動にも期待がかかっている。その予測に立つ関西の主要国の総領事館、領事館が、神戸から大阪に移転しつつある」と報じている。当時、5年間に神戸は10カ国から7カ国に、大阪は7カ国から13カ国へと増減したと書く。しかしこの期待はバブルの崩壊によってもろくも崩れる。

更に平成17年(2005)2月には中部国際空港も開港し、空港間で客と貨物の熾烈な奪い合いが始まりつつある。

情報・通信技術の目まぐるしい発展は、「地の利」に如何に影響するか?新聞・テレビなどの報道機関はもとより官庁、企業の情報・通信網を技術革新が一変させた。更にインターネットなどオンデマンドの新しい情報・通信網の出現は、個人レベルで東京と地方中小都市の格差を解消し、同一条件下に置く。もはや幕末期の佐賀のような恵まれた「地の利」は無い。とはいえ、発信源の情報の豊富さと鮮度は、都会と地方とで断然異なる。

では地方の「地の利」はもはや存在しないものか。消去法で言えば大都会の抱える問題点の少なさだろう。都会は人口の過密さから来る高価な食・住コスト、過密交通、環境・公害問題など、時間的ロスと、ストレス・肉体的疲労などのマイナス面を持つ。地方中小都市の魅力はこの種の問題点の少ないことといえようが、それをメリットと感じるかどうかは個々人の価値観、職業適応能力による。こうして地方中小都市の「地の利」はやはり難しいといえるだろう。

地方都市に今や澎湃として盛り上がる町起こし、村起こし、一村一品運動などの動きは、インターネットなど情報検索手段の支援もあり需要は喚起されつつある。これは「地の利」を生み出そうという努力であろうが、私は結果として「人の和」も生み出していると見たい。

朝日新聞2005.02.09の社説「天の時に人の和を(パレスチナ)」は、強硬派アラファト氏の死去のこの機会を捕らえて開催されたイスラエルシャロン首相とパレスチナ自治政府のアッバス議長との会談を是非成功させて、パレスチナに平和を願うというものであり、「天の時に人の和を」の用法は私のそれに類似性があった。

激動の時代であればこそ、「天の時」、「地の利」はある日突然やって来るといえよう。歴史はその機会を如何に旨く捉え得るかで大きく変わる。その機会を如何に活用し得るかが為政者や行政或いは個人にも求められるところであろう。

最後に一言。ある学者は言う。明治以来昭和20年(1945)までの日本の歴史は、戦争で多大の人命を失った点からいって最悪の時代であったと。なるほど近代的な学校制度が殖産興業の実を挙げると同時に、富国強兵の教育が軍部の野望・暴走を生み、我が国民及び近隣諸国民に多大の被害を与えたことも事実だ。

だがもし明治維新の、教育を基礎とした我が国近代化方針が成功しなかったとしたらどのような今日の日本があるというのか?その決断と実行こそが日本人の勤勉さと相俟って、技術、産業は興隆し、経済的繁栄の今日を招来したと私はいいたい。

(原文平成2年8月。一部加筆訂正)(2005.06.05)

参考文献:

  歴史学研究会編:日本史年表、岩波書店、1966年8月30日、2刷

  中村政則編:年表昭和史、岩波書店、1989年3月20日、1刷

  芝原拓自:世界史のなかの明治維新、岩波新書3、1987年12月10日、13刷

  杉谷 昭:鍋島閑叟、中公新書1067、1992年3月25日発行

  鈴木鶴子:江藤新平と明治維新、朝日新聞社

  芳賀 徹:岩倉使節団の西洋見聞、NHK市民大学、1990年1月

  富田 仁編:海を越えた日本人名事典、日外アソシエーツ㈱紀伊国屋書店、

  1985.12.10    

  平凡社:日本人名事典、

  富田正文:福翁自伝、岩波文庫、1990年5月25日、23刷 

HP:「佐賀の群像について」

http://www.pref.saga.lg.jp/at-contents/kanko_bunka/k_shisetsu/rekisi/gunzou/index.html

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