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2005年6月25日

2005/06/25

19:モノ・クローニックとポリ・クローニック

050624hanngesyou37 「遥かなるヨーロッパ」の著者柴田俊治さんは、冒頭「完全と正確を好むドイツ人の性格は日本人と共通するところがある」と述べ、しかしすぐその後で、ユダヤ人収容所を見た感想として「この徹底した完全主義が狂気にまで進んで、ナチ(国家社会主義ドイツ労働者党の略)はゲルマン民族が世界の最優良種族と信じ込み…」と、例の非人間的行動への批判と恐怖とを述べている。

時々テレビはドイツ人の整理整頓好きや徹底したゴミの分別収集、容器持参で飲料(ミルクなど)を購入する行動などを紹介している。このようなドイツ人の徹底した行動や習慣を見るにつけて、私は結局「似ていない」方に軍配を上げている。

ドイツ人のあの物事に対する徹底性、徹底主義がなければ今日我々が知るドイツのきら星のような哲学者・思想家たとえば、カント、フィヒテ、ヘーゲル、マルクス、ショペンハウエル、ニーチェ、フッサール、ハイデッカー、ヤスパース、サルトル等は存在しないのではなかろうか?とさえ私は思っている。

私の勝手な想像だが、彼らは哲学・思想の体系をどのようにして生み出したか?(私は以前にも少し触れたが)、環境的には「暗く長く厳しいドイツの冬の自然環境」が貢献しているのではなかろうか?と。

世界や人生の究極の根本原理を客観的・理性的に追求して行く中で、思索の贅肉を徹底してそぎ落とし骨の髄だけを残すような厳しい精神作業の中から始めて「原理」という単純化された真理・体系が生み出されるのではないだろうか?

雑念を捨て、一つのことを徹底して思索、追求してゆく工程はしかし、現代のように恵まれた環境(気候風土、民度)では、余程の努力がなくては不可能であろう。

「日本人とユダヤ人」(イザヤ・ベンダサン著)は「日本教徒」という表現で、

「日本人は清濁合わせ飲むような性向があり仏教、キリスト教、神道などを共存的に受け入れている----」と、日本人の宗教観、民族精神を表現している。そこには温暖で平和なわが国土のイメージだけが目に浮かぶ。日本産の優れた「哲学・思想」が誕生し難い理由もそこにあるのではなかろうか?などと、私は専門家に失礼な空想にも耽ったところだ。

宗教も哲学であろう。ユダヤ教、キリスト教、マホメット教という三大宗教が中東の厳しい環境から発生したという背景には、この地に生き残るための条件として、信頼・信服できる強力なリーダーの誕生を希求したことと表裏一体であろうと私は考えている。

「かくれた差異」(エドワード・T・ホール夫妻著、アメリカ人学者)は日本人とドイツ人とを比較した本である。

彼はドイツ、スイス、北ヨーロッパ、アメリカ人といった人種は「モノ・クローニック」であり、地中海民族や日本人は「ポリ・クローニック」であるという。この本にもこの言葉の翻訳はなく、次のように用いられている。

「モノ・クローニック人種は一度に一つのことしか処理出来ない型」であり、「ポリ・クローニック人種は同時に多くのことが処理できる型」であるという。

断っておくがこの本に、どちらがより優れているか?などという下世話な記述はない。ポリ・クローニック人種に分類される私自身、どこかに「曖昧さ」、「ルーズさ」という負の面を持っている。「清潔、正確、勤勉を好む」とは言ってもそれも「徹底さ」を欠いているのだ。

この学説が文化人類学的にどのような評価を受けているものか私は知らないが、この説は私をよく納得させるものであった。

やや突込みが足りないと思うところは「地中海民族や日本人は何故ポリ・クローニックの能力を持っているか?」ということだ。私の仮説は「適応性、多様性に優れた自然環境の恩恵」説である。

恐らく「モノ・クローニック」、「ポリ・クローニック」は気候、風土、歴史が作り上げた伝統的・民族的な精神構造に起因する文化であろうし、後天的な教育力での改造や転向が難しいものではあるまいか?    原文:平成二年十月記(2005.06.25

柴田俊治:「遥かなヨーロッパ」朝日新聞社 昭和56220日 1刷

イザヤ・ベンダサン:「日本人とユダヤ人」角川文庫 (1988

ホール、エドワード・T・、ホール、ミルドレッド・リー : 「かくれた差異」(勝田二郎訳) メディアハウス出版会 (1986.04.25)

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