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2005年8月15日

2005/08/15

No.22 学徒動員、原爆、終戦…1945年8月の思い出

050815hiougi 60年前の1945年(昭和20年)8月15日の夜、大村湾に面した川棚海軍工廠学徒動員宿舎での出来事である。

S少尉はこぶしを振りかざして絶叫した。「諸君、日本にはなお、550発の魚形水雷がある。これだけの戦力を持ちながら、無条件降伏とは何事だ。…諸君、5年後の反撃を誓おう。鬼畜米英をやっつけるのだ!」。「そうだ!」我々も右手を高くかざして、S少尉の檄に答えた。無念の涙が頬を流れる。嗚咽する声も聞こえる。

我々は、正午に聞いた敗戦のニュースの衝撃と、その後に襲ってきた喪失感を引きずって大食堂に集合していた。今振り返れば、数百人はいたであろう動員学生が繰り広げた舞台劇「報復の誓い」の一幕である。

8月1日から始まった動員。当時テレビは無く、ラジオも自由に聞けない時代であればニュース源は寮監室の新聞だけだった。そこで8月6日の広島への新型爆弾?落下のニュースを知る。

二日後の、8月9日11時2分の長崎原爆落下の瞬間はこの目で見た。大村湾の彼方の閃光とキノコ雲、一呼吸をおいて襲ってきた爆風と砂塵。

おお、これは何だ?これが既報の新型爆弾?と直ぐには結び付かなかったが、その夜動員学生に下った長崎復旧の出動命令がその異常さ、深刻さを教える。我々のクラスは何の都合か出動の選に漏れたが、友人の多くは罪も無い市民の累々たる死骸の運搬、負傷者の移送作業に携わる。後日被爆者手帳を持つ身となった彼らだが、幸いこの出動が原因の発症を聞かない。この事件は戦局の前途に不吉な予感を抱かせるには十分なものだった。

西部軍管区司令部の当日2時45分発表によれば、「敵大型二機は長崎市に侵入し、新型爆弾らしきものを使用せり、詳細目下調査中なるも、被害は比較的僅少なる見込み」となっている。

1945年9月1日付長崎県作成資料によれば、死者:23,753人、行方不明:1,927人、重軽傷者:40,993人、合計:66,673人となっている。もはや戦後の発表であり、作為はなかろうが、詳報を出し得なかった当時の混乱振りが伺われる。

今日長崎原爆の被害者は、2005年8月9日朝日新聞夕刊によれば、「式典は(60年後の今日の)合計13万7397人の死没者の冥福を祈った」とある。一方、長崎市長伊藤一長市長の本年の「長崎平和宣言」には「…一瞬にして長崎のまちを破壊しました。死者7万4千人、負傷者7万5千人…」とある。数値に若干の相違はあるが、原爆の脅威を見せ付けた大惨事であった。

今の数え方で言えば17才、私は1945年4月、地元の高校に入学し寮生活を始めていた。年表によればこの年2月から米軍機動部隊は本格的な本土空襲を開始し、3月9日、B29は東京夜間大空襲を実施し、23万戸を焼失、死傷者は12万人に及んだという。更に4月1日、米軍はついに沖縄本島に上陸。6月23日守備隊全滅という時期であった。

当時我々は新聞から断片的に戦局を把握するという状況にあったが、私の5月2日の日記は

「聞けばヒットラーもムッソリーニも死んだとか、西方の英雄並び倒れ、その戦局正に風前の灯火である。いよいよ日本は全世界を敵として戦わねばならぬ日、遠からず来ると思う…」と。

今日の歴史によればムッソリーニは4月28日銃殺され、ヒットラーは翌30日自殺したとなっており、当時情報に疎かった我々とはいえ、比較的正確に、しかも数日遅れで把握していたことになる。こういった中で入学式から4ヶ月間、我々は食料不足を学校農場での自給自足で補いながら新しい生活を始めていた。

その我々に8月1日からの川棚海軍工廠への動員命令が下る。7月末私は身回り品と若干の図書、参考書などをトランクに詰めて駅に向かう。駅前にさしかかった時空襲警報と共に敵戦闘機が飛来する。近くの防空壕に逃げ込み、空気抜きの隙間からグラマンと思われる戦闘機影を見る。壕の周りにビューンピューンと不気味な音を立てて土煙が上がる。戦慄を覚えたひと時であった。暫時経過後私は汽車に飛び乗り任地に向かう。この時期、大型の軍需工場もない地方都市にまで敵機は易々として来襲し我々を恐怖に陥れていた。もはや日本のどこにも制空権はなかった。

川棚町は佐世保線早岐(はいき)駅で大村線に乗り換えて2、30分のところにあった。昭和18年5月、大村湾に面したこの町に海軍工廠が開庁される。魚形水雷年産2,500本目標。私はその2年後、炎天下の坂道を重いトランクを下げて宿舎への道を辿っていた。ここが私にとってどんな運命の町となるか?私には全く予想できなかったがここでの生活は僅か半月後に終止符を打った。敗戦という現実が来なければ私はこの地に骨を埋めたかも知れない。

真夏の夜明けは早い。早朝5時半の「猪乗作業隊宿舎前!」の号令で私の一日が始まる。ねむい目をこすりながら宿舎の前に整列し、長い坂道を下って海軍工廠の鋳物工場に入る。主な機材は既に裏山に掘られた横穴への疎開が終わり、我々は残りの機材と燃料コークスとをトラックに積み、横穴の前まで運搬する作業に従事する。ハンドルは下士官が握り、我々学生がトラックを後押しして山道を登る。トラックにエンジンが載っていたかどうか確かめてはいないが、既にガソリンは無かったのであろう。横穴は地下工場に通じていたというが、私にはそれを確かめる程の好奇心がなかった。暑さが私の思考を止めていた。

そんな我々の日常の中に、夜学もあった。I先生の英語、H先生の化学の授業は今も思い出に残っている。

我々は「復讐の誓い」の、興奮醒めやらぬ思いを胸に秘めて自室に戻った。思えばこの2週間、ようやく眠りに付いたと思うころ、空襲警報のサイレンが鳴り響き敵機が来襲した。その都度食堂背後の山腹の横穴に逃げ込む。郷里の小さな町でさえ空襲を受けるのだから、この軍需工場が標的とならない筈はない。そんな日の翌朝、工廠厩舎から流れ出た血で川棚川は真っ赤に染まっていた。馬は工廠内を闊歩する将校連の乗用馬であり、その哀れな最後であった。

15日昼、皆で終戦の玉音放送を聞く。N将校が言った。「君達、この条件(無条件降伏)をどう思うか?」と。折角の質問だが我々には意見を述べるだけの見識がなかった。やがてぽつりと「案外寛大だな」と彼は呟いた。意外な答えだった。

そうか!それが事実ならそんなに心配することはないだろう。それに、もうこの悪夢から解放されるのだ。そう思う反面、無条件降伏という現実が重くのしかかって来る。このさき日本はどうなるのか?いや、本当にこのままでいいのであろうか?反問また煩悶。答は出せない。

真剣にまた深刻に考えればとても眠れるものではなかったが、連夜の空襲で睡眠不足して疲労の極限にあった私は、いつのまにか眠り込んでいた。翌朝、海軍工廠の朝は前日の興奮をよそに静かに明けていた。

玉音放送を阻止しようとして15日午前1時、青年将校の一部が首相官邸を襲ったクーデターまがいの事件もあったと伝えられたが、ともかくも日本は一つの山を越えた。

8月15日、鈴木貫太郎内閣が総辞職、8月17日東迩宮稔彦(なるひこ)元陸軍大将を首相とする内閣が誕生。革命や動乱もなく、敗戦から戦後復興へと歯車は緩やかに回り始めた。

それから5年後の1950年(昭和25年)、涙で誓った反撃と復讐をすっかり忘れて私は貧乏な学生生活を送っていた。世の中は混沌から少しずつ秩序立ってはいたが、マッカーサーによる共産党の非合法化、企業のレッドパージが始まり、外では朝鮮戦争が始まるなど、なお殺伐とした戦後であった。

終戦の詔書の中に「耐え難きを耐え、忍び難きを忍び、以て万世のために太平を開かんと欲す」という一節があったことに当時の私は全く気付かなかった。いや、ラジオの音質が悪くはっきりとは聞きとれなかったのだ。だが、たとえ気付いていたとしてもその言葉の重みまではかりかねたであろう。 050815

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