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2005年8月31日

2005/08/31

23:美田は買わずとも借金は残すまじ

sagazyou容赦なく照りつけた夏の太陽が衰え始めたのか、今朝は大分涼しかった。何か淋しい気分だ。夏よお前もか?と。

いつのことだったか、近所の図書館で『明治維新とあるお雇い外国人フルベッキの生涯』という本を見つけた。私の郷里とも関係の深い内容であり、いつかフルベッキについて書きたいと念願していたが、ようやくその気分になった。

「…宣教師として長崎の地を踏んだ26才から、近衛儀仗兵に守られ政府要人と著名人に見送られて青山墓地に眠る68才まで、あなたは長崎の『済美館』、『致遠館』で英語教師として多くの人材を育て、文部省発足後は実質的な最高顧問として新学制の諮問に答え、明治新政府最初のお雇い外国人教師としてその職責を果しました。『早稲田大学百年史』は、大隈重信らが設立しあなたが心血を注いだ「民間英語塾致遠館」を、早稲田大学の源流として評価しています…」(小生賛歌)

早稲田大学の前身、東京専門学校は明治15年(1882)の創立で120年ほど前の事である。昭和10年(1935)小学校に入学した私の最初の遠足先は、大隈さんの生家跡記念公園だった。大正12年(1922)に亡くなったこの偉人は私が生まれる6年前までこの世の人であった。

 

「致遠館」とは一体何ものか?読み進んで行くうちに、これが1865年、長崎五島町の諌早屋敷内に大隈さんらが設立した英語学校であることを知る。大隈さん27才、ペリー来航から12年後のことだ。当時、長崎県諌早地方は鍋島藩の支藩であったことから「諌早屋敷」はれっきとした佐賀藩の屋敷であったと思われる。残念ながら今日、致遠館の名は「長崎県大百科事典」も黙殺している。

「致遠」とは「幕末の青年らしい気宇壮大な気分をこの言葉に託したもの」という。平たく言えば「洋学を学ぶ者は来れ。遠来の客を拒まず」というほどのものではないかと私は解釈している。(諸橋大漢和辞典によると易経・繋辞上では「遠きを極めること」。同・繋辞下では「遠方に至る」。漢書・班固伝下では「遠方の民を招き来らしめる」という意味とある)

当時佐賀藩には1781年創立の古い歴史を持つ藩校弘道館があった。文武両道、殊に文に精を出すことを奨励し、藩主鍋島直正のころからは新時代への対応としてオランダ語と自然科学とを儒学、国学という伝統的教授科目に加えていたという。

しかし次第にヨーロッパやアメリカの新思潮に触れたいとする洋学派が現れる。とはいえ城下町では蘭学を中心とした伝統的保守派が主流であり、劣勢の洋学派は良い先生を見つけることが難しいという事情もあった。

こうして「致遠館」は大隈重信、副島種臣らによって1865年設立され、フルベッキを校長として招く。フルベッキは当時長崎奉行に任命されていた「済美館」(1863年幕府設立の官立英語学校長崎洋学所、翌1864年済美館へ改称)と兼務することになるが、時間の大半を致遠館のために費やし、ここに日本最初の近代的大学教育の基礎を築くことになったという。

学頭に副島種臣(のち明治政府参議、元勲)が就任。この学校から相良知安(弘庵)(のち明治政府医学校取調御用掛り、東京大学医学部前身の大学東校にドイツ医学を採用させる)、山口尚芳(東京大学法学・文学部の前身、開成学校教頭にフルベッキを招く使者、岩倉使節団副使)小出千之助(万延元年遣米使節団通訳)、高峯譲吉(薬学者、タカジアスターゼ、アドレナリン発明者、加賀藩出身)らが育って行く。大学南校時代のフルベッキ宅で直接指導を受けた高橋是清1854年生まれ、仙台藩士、大正時代の総理大臣。高橋は18才の折り唐津藩の英語教師を勤めたというのも驚きであった。

フルベッキは1830年オランダ生まれ、ユトレヒト理工科学校で学び、1852年(22才)移民としてアメリカに渡る。土木工事、機械工場で働いた後26才でオーバン神学校に入学し、1859年卒業。この年長崎のアメリカ人宣教師の勧告による日本行き宣教師に志願して11月長崎に上陸。

こうして本職宣教師のフルベッキは、その語学力による教育者としての能力と、政治・法律面の広い教養によって1859年(29才)の来日から1877年(明治10年、47才)までの18年間にわたり、幕末期及び明治政府の助走期において活躍する。この間、明治4年の文部省設置時点以来事実上最高顧問として新学制の諮問に答え、明治政府最初のお雇い外国人教師としてその職責を果した。

明治10年の雇用契約終了後は宣教師に戻り、また、明治学院の教授として、キリスト教教育に専念。政府はフルベッキの多年の功労に対し明治10年天皇の勅語と勲三等旭日章を以って報いる。

フルベッキの業績は自らの教師としての貢献のほかに、留学や教師招聘への貢献がある。

 1866年 横井小楠の甥左平太、大平の兄弟のアメリカ留学

 1867年 勝海舟の息子小鹿のアメリカ留学

 1868年 福井藩主松平慶永の要請で、藩主日下太郎のアメリカ留学

 1870年 岩倉具視の、息子二名のアメリカ留学

 1870年 南校からの最初のアメリカ留学

 1871年 福井藩校への教師招聘

1871年  岩倉具視の要請で、米欧視察団の派遣に助言

などなどである。

これらの業績を見てフルベッキはまさに優れた逸材であったことを知る。しかし真に賞賛されるべきはこの逸材を活用して近代日本の基礎を築いた明治維新期の先人たちであろう。欧米列強への遅れを回復して欧米と対等の地位をえたい。教育は百年の大計であれば、やがて子、孫の時代に花は咲こう。この志を持って人材育成に尽力したものであろう。

本日の新聞は我が国の「国・地方の借金は700兆円、国民一人当たり600万円になる」と報じている。我々はこれからも子孫にこの借金を押し付けて気楽、気儘に人生を送ろうというのか?

あなたは嘯くかもしれない。「借金は国民に迎合した政治家の責任。おれの預金通帳に負債が記入されているわけではない」と。

しかし目先しか見えず、保守保身の志の低い政治家を選出したのも他ならぬ我々国民であり、その責任は重い。今こそ我々は「子孫のために美田は買わずとも、借金は残すまじ」の覚悟を持ち、将来を見据えた国家大計の実現に努力する党を選らばねばならない。明治維新から僅かに130年。先人と比較して現代人は何と志の低いことか! 050831

  • 『明治維新とあるお雇い外国人 フルベッキの生涯』 大橋昭夫、平野日出男著、新人物往来社、1988年380p フルベッキ: Verbeck,Guido.Herman.Fridolin

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