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2005年10月6日

2005/10/06

25:「英語を(第二)公用語に!」という日本人の発想

25higannbana パリのホテルの喫茶室でのこと。「ココア」が通じないのだ。ウエイターは「コカコーラ?」と問い返してくる。フランスで英語が通じ難いことは聞いていた。念のためにと持参した伝家の宝刀「ガイドブック」には「ショコラ」とあった。それにしても日本人宿泊客の多いこのホテルで、ココアも通じないのか!私は憮然とした面持ちでココアを飲む。苦い。

何故フランスでは英語が通じ難いのだろうか?以前に誰かが言った。「プライドだよ!」と。ココア事件から1年。私はその答えを「文教大学文学部文学紀要第16-2号」八田洋子先生の論文「日本における英語教育と英語公用語化問題」の中に見つけた

「フランスではアメリカ英語の乱入を防ぐために『言語警察』が設置され、フランス語を保護している」というくだりである。

説明はそこまで。その背景に愛国心とプライドがあるのではなかろうか?という疑問はまだ解けない。

それに比べて、我が国の「英語公用語化」提案は何だったか?2000年1月、小渕元首相の私的諮問機関「21世紀日本の構想懇談会」が、唐突に「英語公用語化」問題を提案したと八田先生は書いている。

世界のリーダーの一員であり続けるためには英語を日本の公用語にするほかない。英語は『世界の共通語』であり、国内に増えていく外国人とのコミュニケイションにも英語が必要である。商品の説明書には英語が多く、アジアの共通語は英語であるから、アジアの仲間はずれにならないためにも「英語」は必須であると、英語「公用語」論の根拠として列挙しているという。

何せ長期滞在者だけでも約60万人(他に永住者約30万人)もの海外在住者がおり、恐らくその数倍の人々が英語を必要とするビジネスに従事して世界を往来しているであろう。英語力を強化すべき段階に到来していることは理解できる。しかしそのことが直ちに「英語第二公用語化」となるのか?小学校からの早期英語教育の実施は国語能力の低下も懸念されている。私はこの提案は焦り、自信の無さによるものではなかろうかと思うところだ。

そもそも「公用語とは何か」を分かっての発言だろうか?「第二国語」ということだろうか?

「公用語」とは、一国の共同体内で複数(人種・民族)の言語が使用されている場合、公共サービスなどにおける意志の疎通を円滑にする目的で、複数言語が法律によって決められて使用されるのが通例であるという。日本の現実に即して言えば、韓国系・北朝鮮系(合計約64万人)それにブラジル系(約22万人)の住民への公共サービスを徹底するために韓国語やポルトガル語を公用語にすることが先決問題ではないか?と私は思う。

10月5日付き朝日新聞国際版は三つの公用語を持つ多言語国家(4言語)スイスが抱える語学問題を取り上げ「スイスの仏語危うし」と報じている。スイスでは多言語国家として意思疎通を図り、結束を強めるために例えばドイツ語圏(チューリッヒ)では仏語を第二国語として小学校5年から実施していたが、最近では外国語である英語を小学校2年から仏語に優先して教えることを義務付けたという。背景には「子供の将来に役立つ」という親たちの希望(住民投票による70%以上の支持)があるという。しかし当然のことながら、フランス語圏(ジュネーヴなど)から「国家の統一が失われてしまう」との反対があるという。

10月4日、朝日放送のテレビ番組「ニッポンの選択」の中で英語教育の早期選択の可否が喧々囂々(けんけんごうごう)と論じられたが、結論を得なかった。ある私立の小学校では一般教科までを英語で教育するという。まさにお雇い外国人による「正則英語」教育にまで戻ったと思わせるニュースであった。そのテレビを見ながら孫娘がいう。「英語ができたら、もっと有利な仕事が出来るがなあ」と。だが、それは間違いだろう。日本語がいくら上手に(読み、書き、話し、聞く)出来てもそれだけでは有利な就職なんて出来ない。せいぜい庶務、販売、雑務の一般職か、サービス産業のいわばフリーター的業務どまりであろう。英語とて能力の程度にもよるが、読み、書き、話し、聞くだけでは専門分野の業務は任されまい。

9月6日付き朝日新聞夕刊のコラム「新科論」は次のようなエピソードを紹介していた。

①神戸に在る、ある政府系研究機関の広報国際化室。約30名の海外出身研究スタッフの生活支援などを受け持つ二人の日本人女子スタッフは、英語力向上のため日常会話を英語としているという。

②つくば市にある政府系研究機関の「物質・材料研究機構」内の「若手国際研究拠点」は約30名の研究者中、日本人は3名という環境。ここでは外国人研究員が研究や生活に不自由しないように「英語公用語化」を進めてはいるが、事務職員の英語力を高めるのが目的ではないという。

③日立製作所の基礎研究所のフェローは「我々のチームで、本気で研究に取り組むなら日本語を話せるようになってもらわないと」という。

これらの事例はあくまで「内なる国際化問題」であるが、諂いがなく堂々とした対応が嬉しい。科学・技術に対する自信が言わせるのであろう。

政府関係者や有識者が必要性を訴えている「英語力」とは何か?私は「交渉力」ではないかと感じている。

元来「ことば」は、意思疎通の手段であり、伝達し表現すべき内容が必要となる。観光旅行で地元の人たちと日常会話を交わし理解と共感のエールを送るのであれば高度の内容は必要が無い。

しかし今求められている「英語力」とは世界の政治家、学者、ビジネスマン或いは関連企業社員に伍して自己の主張を表現し、相手に理解させ、納得させ、更には国益にまで反映させる手段としてのビジネス「語学力」である。「人と会うことは戦いである」と信じている外国人と丁々発止と渡り合う場合の語学力には、当然ながら自分の専門分野、専門知識、あるいは専門的技術・技能の所有が前提であり、同時に毅然とした態度も求められるところだ。また日本文化への理解も求められよう。

では将来、官庁や企業でそのようなミッション(任務、使命)に従事するであろう人を予測して小学校から英語の早期教育を実施することが可能か?また、意味のあることであろうか?日常会話は成るほど身に着くであろう。しかし、交渉に必要な「パワー」は、それ相応の年齢、環境、地位が要求する「必要性」から生まれるものである。必要性も先読みして小学校から備えることには無理があろう。

大場みな子著「津田梅子」によれば梅子は女子英学塾(津田塾の前身と思われる)の正式行事での挨拶は、英語で通したという。満7歳からの11年間の英語による米国生活で梅子のアイデンティティは「英語こそ自己を自由に表現できる言葉」として位置づけていると私は読んだ。「生涯日本語はかなり不得手であった」と大場も書いている。人間のアイデンティティは二国に亙ることはありえないのではないか?というのが私の思いである。ただし彼女はバイリンガルの環境にいたわけではない。

mother tongue(母語)とは母親の口伝えによるものという意味ではなかろうか?」とふと思ったことがある。確かシンガポールの新聞記者であったと思うが、「日本人はアジアの兄貴分のように振舞うが、英語を学校でしか学ばないではないか!我々は母親から学ぶのだ」と少し偉そうに書いていた。日本人の英語下手を指摘したものであろうが、その伝で言えば先ず母親が英語に強くなることだと、これは冗談である。

それはさておき、「シンガポールでは、マレー語、華語、タミール語、英語が公用語で、英語が多民族間のlingua franca(共通語、国際語)である」という。「 英語で学ぶ結果、人々の『脱文化化』(deculturalized)が起こり、西洋の物まねになりアジア人でもなく、かといって西洋人でもないアイデンティティ喪失の事態が懸念されるようになった。また、英語と共に入ってくる軽いポップカルチャーを通して、退廃気分、自由放任、西洋化が起こり、東洋の価値観喪失が危惧されるようになった。1970 年後半以来、行政側は、母語を使うことによって人々を『再アジア化』(to re-Asianize the people)することに着手し、1979 年、リー・クアン・ユーは、中国人コミュニティでは中国人の再結束をはかるために、The Speak Mandarin Campaign (北京官話使用運動?)を実施したほどである」と。

「教育言語に英語を採用しているブータンでも、民族文化を守り継承していくという主義を通し、生徒たちの制服は日本の着物に似た民族衣装である」という。

「フランスでは、アメリカ英語の乱入を防ぐために『言語警察』が設置され、フランス語を保護している(前述)」とも八田先生は書いている。

「英語公用語化」をめぐる論争は世界的に見ても賛否両論があるようである。言葉は文化であれば「英語公用語化」問題は単に語学行政の問題で終わらない。一国の文化を「外国化するリスク」を背負っており、場合によっては回復不可能な「文化汚染・文化破壊」を来たす。このことを私はこの八田論文から読み取った。 

結論的に言えば、高校までの英語教育のベースは現状を踏襲し、真に英語を必要とする人が各自の責任で対応することが望ましいものと私は感じている。

ただ、真に求められている人材とは語学堪能であると同時に交渉力を持つ人材であろう。アメリカの幼児のように「show & tell 」で自己表現技術を学び、長じてはディベート (討議、討論)技術を学んで育った人種と対等に接して行くには、それ相応の教育・訓練が必要である。政治家の登竜門に松下政経塾があるように、大学院に「Culture & Law school」のようなシステムを作り人材を育てることが早道ではと思ったところである。

八田論文中の作家井上ひさしさんの意見「インターネットやコンピュ―ターという『文明』が英語と一緒にはいってくるのですから、受け入れるなというのは無理な話でしょうが、だからこそ私たち自身が日本語を深く、しなやかに、正確に使えないと大変なことになります。二十一世紀にこの国の文化、文明をつくっていくための言葉は、日本語しかない。(略)一時の流行で英語に飛びついたりすると、日本語という思考の根拠地がなくなる。根拠地なしではものごとを深く考えることはできない。そんな国民に未来はありません。(略)英語が必要な人は、必死で英語をやればいい。それだけのことじゃありませんか」には私も同感である。日本語こそ、日本人のアイデンティティであろう。

文明(科学・技術)は不可逆で累積的な進歩の過程をたどるという。しかし「文化には不断の進行がなく、前進することもあれば後退することもあり、その過去は未来を保証しない」といわれている。語学行政も文化の一部であれば、この定義の枠内にあり、前進もあれば後退もある。

英語国民は3.4億人程度(他に第二言語人口6億人)であり、中国、インド、スペイン語系などの人口に比べれば少ないが、世界秩序を構築してリードする民族となっている。その理由は、政治・経済・科学・技術等の分野での、発想力・開発力・実行力・指導力等の偉大さに他なるまい。そうであれば、日本もそれらの分野でそのような地位を確保すればよい。日本語が世界標準語の一つになり得るはずである。勝負は「実績」だけ、常任理事国入りのように世界各国の承認を必要とするものではない。いつかそういう日が来ることを夢みてこの章を終わりたい。051006

日本における英語教育と英語公用化問題:八田洋子

http://www.bunkyo.ac.jp/faculty/lib/klib/kiyo/lit/l1602/l160205.pdf

英語人口:http://eeeenglish.com/89708CEA/w89708CEA906C8CFB

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