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2005年11月8日

2005/11/08

31:数学は何故美しくあり得るか?

31pirakannsasu 数学では、スッキリした解き方で回答が得られたとき、「この解は美しい」と表現するそうである。小説家新田次郎さんの息子さんで御茶ノ水女子大学の数学教授藤原正彦さんの随想にそんな一節があった。もう十何年も前のことである。私など、やたら数式を並べ立てやっと解けたという思い出の多い身には何となくこの表現は理解出来た。しかし更に読み進んで「数学は美学に通じる」という下りまで来ると、いささか抵抗を感じた。そこでこの話題を、大学で数学を専攻した職場の友人に投げかけた。私の質問は愚問であった。

その後私はある絵画展を見ながら、ふとそのことを想い出していた。我々は音楽や絵画など時間的・空間的芸術作品に美しさを感じることもあれば、詩歌の歌詞やリズムに美しさを感じることもある。航空機、新幹線、高層建築物といった機械構造物・建築構造物の形態や機能に美を感じることもある。数学も美しいくあり得るという。ではこれらに共通し、これらを統括する「美」の原理は一体なんであろうか?と。

ある日私は湯川秀樹先生と梅棹忠夫先生の対談集「人間にとって科学とはなにか」という本を読んでいて、私の疑問に触れた箇所があり、かなり理解できた。しかし物理や数学の素人の私にはなお理解できない点が多々あった。私はこのblogを書くにあたりまた前記友人に助けを求めた。

以下は彼が送ってくれたメールの要約である。
「数学科で学んでいるとき授業中に美しいという言葉をよく聞きました。たとえば『これは美しい解だ』とか『美しい定理だ』というように。
先生は『授業中に美しいという言葉をこれだけ頻繁に使うのは、数学科以外では芸術関係の学部だけだろう』ともよく言っていました。
では、美に対して関心のある人の集まりのような数学科の集団が求めている美とは何でしょうか?。私は『単純化・簡素化』ではないかと思います。
定理の証明でも回りまわってやっと証明できる方法よりも、他の人が気がついていなかったようなプロセスであっさりと証明できたときに『美しい』といいます。また数学そのものも単純化、簡素化から成り立っているように思います。
自然界にある現象の中の夾雑物を取り払い本質的な性質のみを抜き出して論ずるのが数学のように思います。
本質的な性質のみを対象にしているので応用が利き、物理学にも化学にも近年では経済学にも使えることになりました。
ただあまりにも本質論に過ぎるので無味乾燥で、イメージがわきにくく、取っ付き難いという評価を受けることもあります」と。
私にとって大変ありがたく、嬉しいコメントだった。

以下は「人間にとって科学とはなにか」の一節である。
湯川:「物理のような法則性のはっきりしている学問では数学を使うのが一番有効な方法です。…もともと科学とは、好きでも嫌いでもそういうことに無関係に人を納得させる方法です。科学でこられると、好きでなくても正しいものは正しいと認めねばならない。ところが、言葉とかほかの手段を使いますと、納得するについても好ききらいが大いに関係する。…私は自分の専門の物理学でも、ある法則なり理論体系なりを『よろしい』と納得するときは、そこに何か美しいものを感じているわけです。…科学では好きもきらいもないとはいうけれども、実は心の奥の方では好ききらいにつながっている。ある種の美意識や好悪感がある。そもそもそういうものを強く持っている人間が、理論物理学というような学問をやるのです。…偉い学者は文章がうまい。逆は成り立たないが、…文章がうまいということは自分が納得する、同時に他人を納得させる、その両方にかかっている」

梅棹:「問題のテーゼ(筆者注釈:命題:伝統的論理学で、判断をことばで表したもの。現代論理学で、文章の意味内容)が、自分の体系の中で上手に部分化されているということが必要でしょう。それをさらに、他人の体系の中に、上手に組み入れる手段というのが文章でしょう。その意味では科学も文章の一種だろうと思うのです。一般の文章よりもう少し拡張された形で、…そこまでゆくと納得させるという機能を最大限に発揮するのは科学的方法とか数学的方法がやはり一番です。これをひっくるめていうと、これは広い意味でレトリック(rhetoric、修辞学、巧みな言い回し)の問題なんです。それは違った体系の中に新しい要素を組み込ませるために開発された合理的手段、言語的手段だと考えていい」。

湯川:「納得という問題は単なる純粋論理だけの問題じゃない。どうして納得するのかという点からいえば、数学や科学だって人間の他の文化活動と、隔絶したものではない」。

さらに梅棹先生は「…言語の中から抽出したある種の洗練された部分が数学になったように…」という。もともと、数学は言葉の一部であったというのである。更に「自然科学においては言語の役割が非常に大きい。というのはつまり、自然科学を一方の極にあるとすれば、その対極に数学がある。そしてその間には広い言語的領域が横たわっている。言語的領域につながっているという意味では、自然科学は文芸みたいなものと、ある意味で大変近いところに位置しているように思う…」と。

私が漠然と感じていたことが30年も前既に本になっていた。ここでは数学に限らず物理学もまた、単純、明快な理論を生み出した場合、美しくあり得ることが述べられている。「物理学もまた、美しく在り得る」という表現は私にとって大きい収穫であった。

ただ、芸術品に感じる美意識がすべて「単純化・簡素化」ではあるまい。しかし航空機、新幹線、高層建築物といった機械構造物・建築構造物の形態や機能への美意識を含めて、人は「単純化・簡素化」に共感して感銘することは今日非常に多いように思われる。
それは何故か?私はまた新たな疑問を抱えたようである。(2005.11.08)

湯川秀樹、梅棹忠夫:「人間にとって科学とはなにか」中公新書132 1993.7.10 33版
科学の定義:(ウイキペディアによる)科学 (かがく, science) は、ラテン語のスキエンティア(scientia、知識)に由来する概念で、体系的で実証的な学問の総称である。広義には人文科学、社会科学、自然科学の総称。狭義には自然科学のことを指す

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