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2005年12月18日

2005/12/18

37:シューベルトの「冬の旅」に寄せて

leierman1capt この人のブログには生活感が感じられないなあ!などと諸兄、諸姉(これはないだろうなあ)が感じているかもと今日は少し反省を込めて変身してみよう。

平成9年の2月下旬、私は高岡、金沢へと冬の旅に出た。車窓から眺めた北国の冬景色は、意外に雪も少なかったが、吹雪混じりの風はやはり北国のもの。私はふとシューベルトの「冬の旅」を思い出す。

青春時代の音楽の思い出がゲルハルト・フィッシュの「冬の旅(フランツ・シューベルト)歌曲集」といえばああ、あの世代かと年令が分かるというもの。私もこのレコードと衝撃的に出会う。ここに引用させて貰った挿絵は去年亡くなった「まっつぁん」こと、松村武彦さんのHPから借用したものだ。こよなく「冬の旅」を愛した同世代の松村さんはHPに自ら描いた油彩の「辻音楽士」を飾り次のように述べている。

「彼(本人と思われる)は安い給料だった。日本中がそうだった。そんな中ゲルハルト・フィッシュが来日することになった。演奏曲目に『冬の旅』があった。予約券発売の初日彼は朝早く起きて一番電車で銀座のプレイガイドへ行った。すでに長い行列ができていた。散々待たされたあげく発売が始まった。彼が望んでいた一番安い席はとっくに売り切れていた。その一つ上の席も無かった。当時は皆金がないから安い席から売れていくのだ。でもともかく切符はあった。2,3ランク上の席。『それでいいです』。給料の半分以上はふっとんだ。まあいいさ。独り者の気楽さ、後はなんとかなるさ。演奏会場は日比谷公会堂。オペラやバレーの公演も、N響の定期公演も、外来演奏家のリサイタルもなんでもかんでもそこでやった。当時まともな演奏会場はそこしかなかった…」と。

この歌曲への思いが、いやゲルハルト・フィッシュへのファンの熱気がむんむんと伝わる表現だ。更に松村さんはいう。
「盛大な拍手に迎えられてフィッシュが登場し演奏が始まった。事前の評では年齢による声の衰えはかくせないとのことだったが、どうしてどうして会場によく響く素晴らしい美声は聴衆を魅了した。この曲は情熱的な、ドラマティックな歌ではない。だからフィッシュの老成した淡々と、あるいはしみじみと訴えかける調子に酔わされたのだ…」と。

私のことに戻ろう。当時初任給が1万円程度、サラリーマンの背広が初任給では買えない時代だった。地方から出てきて都会で寮住まいする身には音楽会のそんな高価な切符を買う余裕など勿論無かった。ただ、懐かしく思い出されるのは、当時歌舞伎好きの上司がいたお陰で4ヶ月間ほど会費を積み立てては、漸く切符を買いみんなで歌舞伎見物と洒落込んだこと。衣食住に追われ、お金を文化に投資するには涙ぐましい努力が必要だった。

敗戦直後の1947年頃のことだったろうか。始めて聞いたレコードがこのドイツ歌曲集「冬の旅(全24曲)」であった。暗く、激しく謳い上げ、時に運命を予感させる響きさえ持つこの歌曲が何を表現し何を訴えているのか?私は森章吾氏のHPを読むまで、ヴィルヘルム・ミュラーの詩を物語として読み解く努力を怠っていた。むしろシューベルトの旋律とゲルハルト・フィッシュの歌唱力に心酔するばかり。好きな第6曲目の「あふれる涙」や第24曲目の「辻音楽師(ライアーマン)」をコンパや忘年会の席でまで原語で謳ったりもした。人の顰蹙を物ともせず謳うほど、若い私のお気に入りであった。

よく知られている「菩提樹」はこの歌曲集の第5曲目だが、他の曲は単独ではポピュラーな曲とは言えまい。しかしインターネットで調べるとこの歌曲集は驚くほどの種類のCDが売られている。やはり歌曲集として鑑賞されているのであろう。
ゲルハルト・フィッシュのあと、この歌曲はフィッシャー・ディスカウに引き継がれ、更にもう私など名前も知らない多くの若手歌手に引き継がれていることが分かる。「冬の旅」は熱狂的ファンに支えられている名曲というべきだろう。
女性歌手、私が約30年ほど前に聞いたメゾ・ソプラノのクリスタル・ルゥードリッヒもあれば、最近ではナタリー・シュトウッツマンという歌手のCDも紹介されているなど、この歌曲は女性歌手によっても歌い継がれている。しかし私は今でもドイツの冬の荒野を彷徨う青年の気持ちを貫く「冬の旅」は、女性歌手の表現に馴染まないと思っている。男性の私のわがままだろうか?今日では女性ファンが女性歌手を支えているのかも知れない。

松村さんは書いている。「ヴィルヘルム・ミュラーは浪漫派後期の若くして散った詩人。暗い灰色のどんよりした曇り空。凍てついた雪と氷に閉ざされたモノトーンの世界の放浪者。せつせつと歌う孤独な旅人のモノローグ。そのどれもが当時、少年時代を抜け出して間もない多感な青春時代を迎えた若者の感傷を誘うには十分な叙情溢れる詩だった。シューベルトもすっかりこの詩に熱を入れあげて作曲したという」と。

私はこの思い出を書くにあたりインターネットで「冬の旅」を再度検索して前記森章吾氏のHPに出会う。ドイツ語と音楽に堪能な森氏から多くのことを学ばせてもらった。元々ヴィルヘルム・ミュラーの詩は青年の失恋、死の決意、そして最後に老辻音楽師との出会いによる死からの救いという物語が底辺にあり、これに共感したシューベルトの名曲であるというような趣旨が述べられている。
森氏は書いている。「最後に,若者が出会うのは,年老い,誰も見向きもしない,しかし,わずかではあっても自分のできることを続けている辻音楽師である。若者は彼を客観的に見ている。しかしふいにその老人に共感を覚え,『自分の歌の伴奏をしてくれるか』という問いで曲集が閉じる」と。

「多感な青春時代」という松村さんの言葉からの発想だが、今日の青年もそういう青春を送って欲しい。私はこの言葉が「死語」になったとは思わないがフリーター青年などにはこの言葉が当てはまらないのでは?と思ってしまう。
しかし、一方で事件のたびに紹介される被害者、いや犯人でさえも、小・中時代の文集には、かって私が空想も表現もしたことのない感性溢れる夢や願望が述べられていて驚く。今日では、夢に向かって努力すれば必ず叶えられると確信出来るほどに可能性に満ちた時代である。
にも関わらずいつか自ら挫折し、軌道から脱線する青年が多いのは何故だろうか?爛熟した文化が、或いは際限なく高度化する文明が、言い換えれば豊かすぎる社会環境が多感な青年を誘惑するのだ。清貧な社会環境が強固な精神力を生み、「ハングリー精神」を生む。この「ハングリー精神」無しには現代の誘惑を超克することは難しいということだろうか。

初めて訪れた高岡の町はこの季節訪れる観光客も少なく、おまけに駅前の地下商店街が定休日とあって淋しかった。その夜私は現地の知人を誘って、彼が奨めてくれた居酒屋「八五郎」を訪れた。ここの海の幸の味だけはさすがに本物。お造り、酢牡蠣、蛍烏賊の味噌和え、蟹、それにかれいの空揚げと、ありふれた品種でも新鮮な食材の舌触り、喉越しの味はさすがに背後に氷見漁港を控えた町のものであった。

翌朝早く高岡を発って金沢に出た。バスで繁華街香林坊を抜け、犀川を渡って広小路で降りる。そこら一体が寺町である。いつか私も眠る菩提寺はその近くにあった。
通された庫裏に約20巻の津田左右吉著作全集が並んでいた。それを見ながら80何歳かの先代住職に私は問う。「確か津田先生は天皇機関説の著作か何かで検挙されましたね」と。「先生は思想的には左翼であり、その面で師事するところはありませんが、なかなか仏教に造詣深く、教えられるところがありました」と。次いで話は禅に及ぶ。「禅を世界に広めた功績は鈴木大拙先生にあるのでは?」との問いに「その鈴木大拙先生も、西田幾太郎先生も共にこのこの金沢が生んだ偉大な思想家です。彼らは日本の、いや世界に誇る思想家です。鈴木先生との想い出は、納骨式を鎌倉に在住の古田紹欽先生と共にこの地で勤めたことです」という。帰宅後慌てて開いた鈴木大拙著「禅と日本文化(訳・北川桃雄)」の序文に西田幾太郎先生はいう。「大拙君は私の中学時代からの親しい友人の一人である」と。偉大な鈴木先生、西田先生が俄に身近な存在となった感じだった。

寺を出た私は金沢駅まで3キロほどの道程を歩くことにした。何度も来たこの街だが、吹雪の舞う真冬の街を一人で歩くのは初めての経験だった。きっとこの季節の良さも発見出来るだろう。そんな期待を抱きながら私は黙々と吹雪と戦いながら歩いた。(2005.12.18)

松村武彦氏のHP
http://www13.plala.or.jp/mazzan/index.html#t_menu

森章吾氏のHP:歌曲冬の旅
http://www.sam.hi-ho.ne.jp/shogo_mori/d911/d911-top-frame.html

森章吾氏のHP:シュタイナー教育関係
http://www.sam.hi-ho.ne.jp/shogo_mori/

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