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2006年1月5日

2006/01/05

38:車中三態

第一話 男A38fusimi_inari_060104
分厚いマンガ雑誌を読みふけっている。時々にやりと笑みを浮かべながら、超人的スピードで頁をめくる。案外紳士然としたところがあり、サラリーマンだろうか。
マンガをあれだけのスピードで読むには、かなり高度のテクニックが要ることだろう。あのテクニックは「パターン認識」というものだろうか?活字人間を自認する私など、文字を追い、時には行間に隠れている文字も探すのだから、なかなか速読は苦手だ。文字もパターン認識で速読が出来るなら、あのテクニックも学びたいものだ。

私の疑問は、混雑もある通勤列車の公衆の面前でマンガ雑誌を読むという行為だ。マンガといえば4駒で完結する「笑話」のようなマンガ時代に育った私、とはいえ今日マンガがストーリーを持つ立派な映像文化となっていることや、歴史や学術書、ある種の文化までもマンガ化して、より読みやすく理解しやすくして知識の普及を図っているという本もあること位は知っている。
しかし私は丸ごとマンガ雑誌というような本を電車の中で平然と読むような特技も度胸も無い。社会通念上、TPOをわきまえて読むべきではないか?ということだ。マンガを批判したり論じたりするのでは決してない。

第二話 男B
ある日私は、向かい側に腰掛けている恰幅のよい中年外国人男性を漠然と眺めていた。やおら彼は少し大型のカードを取り出して、表裏を見比べながら日本語の習得を始めた。カードには「雅やか」「秘かに」「催す」「裁く」「報いる」というような文字が見える。次はどんな文字が現れるかと私の興味をそそる。若者なら日本人でも読めない人もいるのではと思われる漢字ばかりだ。中々やるじゃないか!私の驚きはいつの間にか感動に変わっていた。我々も学生時代にカードで学んだ経験はあるが、驚きはその質というか学び方の特異さだ。私も年初に今年こそはと志を立てて毎年モノにならない某国語を、彼の情熱をお手本にして学ぶとしようか!もう手遅れだと悪魔は囁く。しかし悪魔はいつでもだれにでも囁くのだ。

第三話 女C
ある日、テレビカメラが車中で化粧する「女」を捉えていた。「車内でお化粧して恥ずかしいことはないですか?」と。「そんなことはちっとも恥ずかしいことではないわ」と答えが返って来る。
「ではあなたが恥ずかしいと思うことは何ですか?」とテレビカメラは追っかける。「たとえば去年着た服を今年も着ることよ」と返す。
それは見栄というものじゃないか!経済力がなければ借りてでも装うということであろうか?
だが、お化粧とは文字づらからいって「化け粧う」のだから人前で化けるのは可笑しい、まして男性の目もある。「狐や狸でさえ物陰でする変身を人前でするというのは新しい文化だろうか?」と私の疑問は解けない。

私はふと昔習ったsnobbery(或いはsnobbish)という言葉を思い出す。男はギリシャ語かラテン語かの原書を小脇に抱えて美女の前でハンカチを落とす。ハンカチを拾って男に差し出す美女は、ちらりと小脇の原書を見る…。そんな場面で習った俗物(根性)の、紳士気取りの、お高くとまった、鼻持ちならない、きざな、きざっぽいというような意味だった。勿論そこには見栄と気取りがある。それでもいくらか上昇志向?のようなものが見えて可愛い。

では男Aは、このsnobberyの対極にあるように見える「偽悪者」だろうか?無教養というような風貌ではなく、また、ストーリーにのめり込んだ自分のそんな行動が恥ずかしいという認識や自覚をあえて捨て去っているようにさえ見える。無防備・超然としたその風貌と行動とのミスマッチが私には理解出来ないのだ。

ルース・ベネディクトは名著「菊と刀」の中で日本人は「恥の文化」を持つと書いていたように思うが、男Aや女Cのように自分の行為が「他人に対して恥ずかしいことではない」というように価値観が変わったとすれば、仏教や儒学がバックボーンとなっているように思う我々年配の人間から見れば、若者はまさに異星人である。

一般論でいえば、人は法に抵触しない範囲で、それぞれの価値観に基づいて行動様式を律しているのであろう。時に切羽詰まった事情からと思われる行為もあるが、車内で、抱き合って媚態を示す若者、楽譜面上でピアノの運指に励む若い女、編み物をする人、蜜柑を食べる・ペットボトルのお茶を飲む大人なども見かける。

戦後60年、価値観は大きく変わったことを実感する車中風景であるが、学ぶべきことにも遭遇する(男B)ことは救いである。(2006.01.05)

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