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2006年1月17日

2006/01/17

39:教育問題 その1

39fusimi_miyagemise 「先生の誇りはどうなるのか?」

平成18年1月11日、朝日新聞1面のトップに「進学授業、広がる外注」、「公立小中に塾の先生、高校には予備校講師」、「実績で特色づくり」という言葉が躍っていた。私はとうとうここまで来たか!という感慨と共に、「この処置に先生は屈辱感を感じないのだろうか、先生と学童・生徒の信頼関係はどうなるのか?」との疑問が湧いた。

1945年の終戦以前、我々の学童・生徒時代には、儒学に基づくものであろうが「三尺下がって師の影を踏まず(*1)」という格言を教わる。同窓会に恩師を招聘する時の教え子たちの気持ちには、この教えが生きていた。今日在る自分は教え導いて下さった先生のお蔭と衷心から感謝し、その気持を率直に表明したものである。先生には頭が上がらない。先生とはそういう存在であった。
他方、実社会で活躍する人間に育った立派な師弟に会ったとき、恩師は「人」を育て上げたという満足感、達成感を実感された瞬間であったろう。この感慨こそ先生を志した多くの人が味わう最高の喜びではなかろうか。
なるほど戦後60年、文明も文化も大きく変化し、現在もなお変化しつつある。この世の中、永久不変の制度など有る筈はないと思いつつもこの「制度破壊」に反感を感じる私である。

朝日の記事の概要はこうだ。
「小中高で、授業や補習、進路指導などを予備校や進学塾に任せる『外注化』が広がっている。東京都内の区立小中では塾の先生が教える。高校では更に進み、関西でも大手予備校が大学進学向けの授業などに講師を派遣している。『学力低下』が指摘されるなか、成績向上などの実績で特色づくりに熱心な学校側と、少子化で冷え込む市場の拡大を目指す塾・予備校側の利害が一致している」と。
詳しくは新聞を読んで貰わねばならないが、例えば東京都港区の区立中学では全学年を対象に土曜特別講座(英数国)を設け、進学塾早稲田アカデミーと提携して始まる(昨年6月から)。同区は今年度予算2200万円をつけ、区内10校すべてに拡大を検討中だとある。大手予備校代々木ゼミナールが講師を派遣しているのは180校、うち6割が公立とも書いている。

大学進学率は50%を越え(大学・短期大学進学率、2005年春51.5%)進学競争が激化する。そういう背景からこのような「進学授業の外注」が広がるのであろうか?或いは大学入試センター試験のような評価方式そのものに問題があるのではなかろうか。
共通一次学力試験からセンター試験へと、難問奇問を排除した良質な問題が確保されるようになったというが、評価選考作業の効率化からであろうが、いくつかの回答から正解を選ぶいわば条件反射的に選択する問題が多いように思われる。

しかし実社会で遭遇する問題や課題には初めから「解」などは無い。我々は問題、課題にじっくりと対面し、知識を生かし、知恵を働かせて隠れた「解答」案を多角的に探り出し、絞り込み、最終的に最良と信じる「解」を決定する。産業界ではこの過程にブレインストーミング法や KJ法 を用いて解答を選出するが、最後の実行までにまだ多くの判断作業が待ちかまえている。

現行のセンター試験が「選択段階」から始まるとはいわない。その前段階として恐らく塾、予備校などが効率的に知識を身につけるテクニックを教えているのであろう。
しかし、分析、総合、秩序づけ、統一を行って、概念を作り、判断をするという「思考」や、物事を見ぬく「洞察」を省略したような方法に、私はどうもついて行けないのだ。どういう経緯で現在のセンター試験が生まれ、今日に及んでいるかは知らないが、負の側面が大きいように思う。

教育は身近な問題だけにその問題点や矛盾点が、我々にも見えない訳ではない。今日教科内容は益々膨らみ、一方で祝祭日など休日の増加による授業時間数は減少する。文化の爛熟が、社会悪に染まり忍耐力や向上心を無くした学童・生徒を生む。真面目に教育に取り組んでも、この異星人的学童・生徒の指導が成果に結びつかず、鬱などの精神的疾病を生み教職から一時離脱せざるを得ない先生の増加と、同僚先生方の業務負担増。さらに全般的に評価業務(先生自身の、担当学童・生徒の)の増加などがその主なものであろう。こうして先生方は自他共に以前のように聖職者という自覚も評価も喪失というのが現実ではなかろうか。

もとより先生方の任務は、学童・生徒の全人格の育成、形成に寄与する権限と責任を持ち、さらに担当教科の指導とそれに付随した評価業務というように広範囲に及ぶ。教頭、校長先生には先生方の健康・精神面の管理までを含む指導管理と安全など今日的重大責務を含む学校運営の責任がのしかかる。
とはいえ、先生方にとって、担当教科の指導というスキル(技量、腕前、熟練、うまさ)の向上は最も主体的・核心的業務であり、創造性を発揮出来る分野でもある筈である。安易に他人に譲渡出来ない、干渉や批判も許さないという聖域の筈である。その権限を侵害するような教科指導の外注が、たとえ一部であるとしても、先生方のやる気を喪失し、無気力化するものではなかろうかと私は恐れる。

朝日の記事は「この背景に、学力の向上を目指す一方で、教員の今の勤務態勢の枠を越えた負担増は難しく、これらの対策は双方を満たそうとする試みでもある」と、辛口の朝日が珍しく穏やかな口調でこれを支持・評価し、「学識者のコメント欄」も付いていない。
しかもこの情報はトップ記事であったにも関わらず関連記事も続報も無いことから察すれば、先生方や教職員組合や県の教育委員会などの合意の上の決定であると思われる。先生方には「外注は職務権限の侵害」という認識はないのだろうか?「業務の負担軽減」として喜んでいいものであろうか?これが今日の常識というものであろうかと私の疑問は膨らむ。

しかし、何度か書いてきたように、「文化」はいつか繰り返すもの、その評価は必ずしも一致しないものである。文化は絶対的、客観的評価手段を持たないためだ。
ただ、当節の「文化」は一部、文明(科学・技術)によって支えられ、換骨奪胎されて、もはや繰り返さない性質を持ち合わせているものもある。教育文化の変化を漸進的推移、変遷と見るか、いつか原点復帰するものと見るか。私は判断しかねている。(2006.01.17)

*1:http://www.k2.dion.ne.jp/~oritaku/newpage1.htm上杉鷹山(治憲)(1751-1829)/上杉家藩主の家訓とある。

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