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2006年1月26日

2006/01/26

40:技術変革期の明暗

40-dog カメラは自分史を作る優れた道具といえるだろう。パソコン同様ハードだがその手軽さがよい。写真は文字を添えなくても喜びも悲しみも表現出来る。こうして人は家族や友人との思い出を写真に残し、旅の伴侶として連れ出して印象を持ち帰ることが出来る。テーマを決めて芸術写真と洒落込んでは作品作りを楽しむ。労力さえ惜しまなければデジカメではそのむかし、自分でD.P.E.を楽しんでいた頃のように色調や構図を自分好みに仕上げることも出来る。
カメラのメーカーや機種にこだわる熱狂的愛好家が多いのは、道具とはいえ機種おのおのに個性があり、独自の表現力を持つということであろうと、これはそこまでのこだわりを持たない私の推測である。すばらしい性能のカメラが手頃な価格で入手出来るようになったことで私は満足している。

そのカメラやフイルムのメーカーが技術変革の大波を受けて事業存続の明暗を分けている。科学技術が生み出す文明であれば、その変革の波に乗れなかった者は退場せざるを得ないと理解していても、現実の厳しさを痛感する。
コニカミノルタホールディングスが1月19日、「サクラカラー」の名で知られた写真フィルムなどのフォト事業と、「αシリーズ」などのカメラ事業から撤退しすると発表したことを朝日新聞が報じている。この報道を受けて、同業の富士写真フイルムは同日「銀塩(フイルム)写真事業を続行する」ことを表明したという。老舗カメラメーカーの中ではニコンも、フィルムカメラから事実上の撤退を発表しているといい、写真愛好家にとってこのニュースは、ついに来たかという思いと一抹のさびしさを味わっているに違いない。

カメラと私の出会いは小学校5,6年の頃オモチャのような箱形カメラを買って貰った時に始まる。名刺よりすこし小形サイズのフイルム?は、日光写真機だったかも知れないが、それでも感光防止用の赤、黒の紙袋に入っていた。わが家には大正末期ころのアルス社の写真雑誌がかなりあったが、父愛用のカメラというようなものはなかった。
私が本格的なカメラを手にしたのは終戦直後の1947年頃、父に買って貰った「セミパール」である。レンズはたしか「ヘキサー75ミリF:4.5 」、よく撮れるカメラだった。幾らで購入したか父は語らなかったが2,500円近い値段だったようである。
関連情報:Konicaの部屋
http://ha1.seikyou.ne.jp/home/sarusuberi/konica.htm

数年後、そのカメラを持って某新聞社主催の撮影会に参加した私は見事入選しその作品を百貨店の展覧会場に飾って貰った。実はこれが最初で最後の入賞の思い出である。「メディユーサ」の頭をかたどったメダルと作品を、私は下宿の居間に飾って友人に自慢もした。当時は勿論白黒写真、D.P.E.作業は下宿の押入で夜になるのを待って行った。フイルムも印画紙もすっかり「サクラ」のファンであった。
賞品がなぜギリシャ神話の魔女「メディユーサ」だろうかと時々疑問に思いながら50年ほど経ってしまった。このブログを書くためにインターネットで「メディユーサ」或いは「Medusa」を検索すると海外も含めて100件以上も出てくる。あまりの多さに、私の疑問を解決してくれるサイトを見出し得なかったが、人は何故この名前に魅せられるのかとまた疑問が湧く。この語の優しい響きに心が囚われてしまうのだろうか。

さて、事業撤退の原因についてコニカミノルタホールディングスは「昨今のデジタルカメラにおいては、CCD等のイメージセンサー技術が中心となり、光学技術、メカトロ技術など当社の強みだけでは、競争力のある強い商品をタイムリーに提供することが困難な状況になってまいりました」と無念の心境を正直に書いている。

カメラはこの5~6年ほどの間に従来のコンパクトカメラ(35ミリフォーマットフイルムカメラ)からデジタルカメラへと急激に変身する。同時に映像記録媒体がフイルム(化学製品)からメモリー(物理製品)へと変わる。VTR用磁気テープの出現当時から映像文化の媒体が物理化の傾向にあると聞いていたが、恐らくその頃から「メカトロ」技術主体では対応出来なくなる兆候が出て来ていたのであろう。そのVTR用磁気テープも、更にハードディスク方式へと推移しつつある。

撤退宣言のコニカにはかって「世界初」という輝かしい商品開発の歴史があった。ことに印象的ニュースを上げると、
1975年 : 世界初のストロボ内蔵カメラC35 EF「ピッカリコニカ」を発売。
1977年 : 世界初のオートフォーカスカメラC35 AF「ジャスピンコニカ」を発売。
これらのデータは、次のHP「Hatena::Diary」から引用させて貰った。
http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%B3%A5%CB%A5%AB?kid=76784

カメラや時計の発展と深く関わって来たと思われる「精密機械」学会も勿論、戦後急激に変身、発展する。門外漢の私のこの工学分野への理解は、「戦時中は砲弾の命中確率を上げるため砲身内部の螺旋形状の研究で成果を上げて来たこと、カメラ、時計などおおよそ精密機械と呼ばれるものの生産技術研究と商品化、それに高速現象の計測・測定分野で成果を上げてきたこと」位の知識しかなかった。

その私が1975年頃のこと、東京の品川プリンスホテルで開かれた精密機械学会の国際会議を覗く機会があった。
コンピューターを駆使した画像解析技術、電子技術をベースにした超高速計測技術研究など、発表テーマの80%程度がその種の研究であり、たとえばりんごを突き抜ける前後のピストルの弾を7,000、8,000駒/秒という高速で撮影・記録する装置や技術など、どちらかと言えばスキルに属する分野の発表は少なかった。
その代わり、走っている新幹線車両(計測車)内から、トロリー線の摩耗状況を50センチメートルほどの間隔で連続測定する技術や、街角の交通信号の切り替えタイミングを時刻、交通量などに応じて最適に制御するシステムを画像解析技術によって提案するなど身近な課題も多く、素人の私にも大変興味深いものであった。私はこれが「メカトロ」技術の正体か?いや成果?かと感嘆した。
以上は門外漢の私の管見であり誤解もあろうがあえて私見を述べると、この学会にとってメカトロニクス、或いはエレクトロニクスは研究手段であろう。恐らくこの学会の究極の目標は、技術で計測・評価出来る複雑な社会現象全般を守備範囲とした解析技術の確立ではなかろうかと思われる。
かってカメラ、時計の生産技術を支え、今日上記の目標に向かって研究推進していると思われる同学会の研究領域は、デジカメの商品化に必要な技術とはもはや異質というべきであろう。

富士写真フイルムに先見性を持った研究者がいたという。今、我が社が持つ映像文化を記録する媒体商品は「化学技術」にベースを置いたものだ。しかしアメリカの動向を見ていると将来は「物理技術」に基礎を置くようになろう。彼は自分の研究費の一部を割いて未来志向の研究(恐らく化学的エマルジョンから物理的磁性体への変換を指すものであろう)に着手する。数年後、その技術が見事に花咲いて、富士フイルムは映像文化記録媒体の「物理化」に成功したという。私の上司の訓辞の一部だ。

話の落ちは「事業部門の長は、現製品が隆盛であればあるほどその守備・発展の責任上、必ずしも未来志向研究に熱心ではない。だから君たちも、将来本当に必要となると思う技術、研究テーマがあれば自分の持つ研究費の10%程度ならunder the tableで使用しても良い」ということであった。

コニカミノルタホールディングスの事業撤退をどう見るか?同社では恐らく今後保有すべき技術領域の予測、認識はあったろう。しかし自社商品の事業規模や売上高などから投資負担には限界があり、一つの選択肢が同業者との合併によって事業規模を拡大し、研究投資負担を軽減、研究の促進を図ることにあったろう。成功しなかった理由は、カメラが「精密機械」から「電機」製品へと革命的に変身したこと。体質、体力を考慮して賢明なリタイアーを選択したということであろう。ライバルの大手総合電機メーカーが強すぎたという一言に尽きるかも知れない。

他方富士写真フイルムの場合、業容も広く事業規模も大きい。今日のデジカメに結びつくコアー技術の確立も早期に成功したものと思われる。
銀塩(フイルム)写真事業存続宣言の中に、「人間の喜びも悲しみも愛も感動も全てを表現する写真は、人間にとって無くてはならないものであり…その中でも銀塩写真は、その表現力などでデジタルに勝る優位さもあり、写真の原点とも言えるものです」と熱く語っているが、私はこの表現の中に余裕と自信をかいま見た思いである。(2006.01.26)

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