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2006年3月25日

2006/03/25

46:街角、テレビ、新聞から問題点を探る

我が家の「ぼけ(木瓜)」が漸く咲き始めた。30年ほど経った老46-boke060324木、ボケがきたのか?恐らく今年の寒さが原因だろう。ともかく冒頭に飾ってねぎらうとしよう。
この度は街角、テレビ、新聞から今日の問題点とその背景を探ってみた。

1: 旗日とは何だ 
先日の「春分の日」。我が家の門口に国旗を掲げてから私は約1時間ほどかかる梅田近くのお寺に向かった。彼岸会施餓鬼法要が行われていた間にアメリカ・カリフォルニア州サンディエゴでは、WBC「日本対キューバ」戦が、日本の「世界一」に向けて刻々と進展していた。帰宅して10対6で勝利したTV録画放送を見る。スタンドに日の丸がはためき、若者の喜びが爆発していた。
一方大阪。お寺からの帰路、私は意識して街の日の丸の旗を探すがついに1本も見付からなかった。我が家の日の丸は肩身の狭い思いをしていたに違いない。私の常識を修正すべき時期がきたのだろうか?

私は「日の丸」や「君が代」にこだわっていうのではない。新しい国旗や国歌が必要だというなら民主主義に従って民意を問うて決めればよい。どこの国にも国旗と国歌があるのだ。問題はその用法である。
人はただ単に祭日だから、卒業式だからというような理由では素直に掲揚や斉唱が出来なくなっている。心の昂揚・興奮などの動機が必要ということだとすれば、演出も場作りも必要ということだろう。「祭日」や「場」に意義を感じさせるには、家庭も国も責任を負わねばなるまい。

2:「叱る」、「もったいない」のいま
2006.03.18のこと。私は読売テレビの番組「世界一受けたい授業!」を見ていた。そこで、これも日本人が失いかけている言葉「叱る」、「もったいない」に出会う。
星野仙一さんは監督として体験した「叱る」ことの重要さを語り、「叱る」と「怒る」との違いについても語った。
次に登場のケニア出身、ワンガリ・マータイ(Wangari Maathai) さんは「持続可能な発展、民主主義、および平和への貢献」で、2004ノーベル平和賞を受賞した人。2005年2月14日から10日間、京都議定書関連行事出席のため来日した際、日本語の「もったいない」という言葉を知って感銘する。この言葉こそ自分が進めてきた活動、「持続可能な発展」の原点にある精神として、世界の人々にこの言葉を広め、その心を生かして貰いたいと発言した。

我々の世代、日本が経済的には貧しくとも儒教文化に支えられ、どちらかといえば封建的な体制の国家であった時代には、よく叱られて育てられた。もったいないという言葉で節約や倹約を教わった。「もったいない」には身に過ぎておそれ多い、かたじけないという意味も加えて教わったものである。それがいつの間にか死語化の危機にさらされ、「もったいない」を外国人に教えて貰う時代になったのだ。一緒にテレビを見ていた24歳の孫娘もこの言葉の使い方を知らなかったほどだ。
米国は戦後、科学技術分野でも先生であった。しかし同時にその科学技術が支え築いた文化、例えば「消費経済社会のシステム」も当然日本は学ぶことになる。その過程で我が国のすばらしい精神文化「もったいない」も、その洪水の中に消え去りつつある。功罪は、便利さと相半ばするというべきである。

3:民主主義は育ったか
財団法人「日本青少年研究所」が、日本、米国、中国、韓国の四カ国の高校生に行った比較意識調査で、関心事に「勉強や成績」をあげた生徒は日本では2割台と最低で、意欲にも乏しいことが分かった。多感なはずの高校時代を漫然と過ごす現代の日本の高校生像が浮き彫りとなり、同研究所は「ゆとり教育との関係なども分析したい」としているという。2006年3月2日(木)新聞各紙の発表である。
調査は
★http://www1.odn.ne.jp/youth-study/index.htmにレジメ、単純集計など。
★調査:昨年10~12月、各国で約1000~3000人の高校生を抽出して実施。★日本の対象者:全国の12都県で1342人。
★調査内容:関心事、悩み事、満足感など。

単純集計結果の中から私が気にかかったものを選択、比較する。(優位なものを赤字に)
  ①親は私をよく叱る
  日本:父親:21.9%  母親:40.2%
  米国:父親:33.9%  母親:39.2%
   ②親は私をよく褒める
     日本:父親:17.0%  母親:27.1%
     米国:父親:39.6%  母親:61.9%
   ③親は私を一人前の大人として扱っている
   日本:父親:18.7%  母親:17.9%
     米国:父親:52.3%  母親:49.4%
   ④親は私に対して期待が大きい
     日本:父親:24.4%  母親:31.5%
     米国:父親:62.1%  母親:65.7%
   ⑤親は私の教育に全力を注いでいる
     日本:父親:19.9%  母親:28.1%
     米国:父親:49.8%  母親:68.1%
    ⑥出来るだけいい大学に入るよう頑張りたい
     日本:全くそう思う:25.8%  まあそう思う:35.9%
     米国:全くそう思う:30.2%  まあそう思う:45.5%
    ⑦学歴より自分の好きなことをしたい
     日本:全くそう思う:31.3%  まあそう思う:42.4%
     米国:全くそう思う:10.2%  まあそう思う:32.4%

私の印象は、米国の親は子供を一人の人間として認め、叱るべき時は叱り、褒めるべき時は褒め、子に期待し、教育にも全力を注ぎ、子もまた親の期待に応えるべく努力する姿が読み取れる。

「レジメ」には、米国の子供が、友人関係、進路、家族を「関心事」としていることに対して日本の子供は、友人関係、進路も挙げてはいるが、マンガ、音楽などの大衆文化、携帯電話メールなどを関心事に挙げ、「生活意識」では、「食べていける収入があればのんびりと暮らしたい」を肯定する回答が4カ国中最多であったという情けない回答である。

戦前の我が国の政治体制に民主主義がなかったといえば嘘になるが、個人の人権(自由・平等・参政権など)を重んじ、多数で物事を決める原則を民主主義と呼ぶなら、その多くを戦後に学んだと私は思っている。だが本当に民主主義は日本に定着したであろうか?日本の国民を三世代に、戦前派、団塊の世代ともいわれる戦後世代、そしてその子の世代に分けて考える。

戦前派の我々は、家庭も子女の教育も妻(母親)任せで戦後復興の仕事に邁進した。といえば聞こえがよいが、同時に無責任の誹りを受けねばなるまい。この世代は、民主主義を学校教育では習わなかった世代である。その代わり戦前からの儒教精神が道徳律として生き残り、戦後薄れ去ったとはいえ「封建的家長中心主義」を持って生きてきた。その一方で、人権尊重を「民主主義の基本」として学んできた子をどこまで厳しく躾けるかについてはガイドラインを持たず、各人各様の規範意識によって、ある人は厳しく、ある人は新時代に「理解ある親」を演じて、甘く育てた。

団塊の世代ともいわれる戦後世代は民主主義を学校教育で学んだ第一世代であろうが、彼らもまた、「人権」中心の民主主義を移植的に受け入れた日本の、被験者的位置づけといえなくもなかろう。(2006.03.23の朝日新聞に「ジェンダーフリー」という言葉がいま日本の自治体で受け入れられず問題になっていることが報じられていることを見ても、民主主義はいまなおぎくしゃくしていることが感じられる)
彼らの「子世代」が見た父母像は、上記の調査統計通りである。民主主義の未成熟さを感じるところだ。

民主主義を「個人の人権(自由・平等・参政権など)を重んじ、多数で物事を決める政治的原則」とする限りにおいては、戦後、我が国に貢献したと見るべきであろう。しかし民主主義の背後にある道徳律は例えば西欧にはキリスト教の戒律があり、アジア、なかんずく東北アジアには仏教、儒教がそれに該当するものとしてある。果たして米国の民主主義が換骨奪胎的に日本に定着しうるものであろうか?という疑問が私に残っている。

覇気のない高校生は何故生まれるたか
調査結果から見える向上心、積極性のある米国高校生の気質に比べて日本ではこうも対蹠的に覇気・気力のない若者がどうして生まれたか?米国が生んだ消費文化の表層の弊害と、我が国独自の教育体制などの影響を受けたと見るべきかも知れない。この関連で私は東京工業大学助手(当時、現教授)小林信一先生「文明社会の原始人、生産への関心は教育次第」と題した新聞投稿(1990.06.28日経産業新聞)を思い出した。概要は次のようである。

「現代の若者は科学技術に強い関心を持ち、ヘッドホーンステレオ、パソコン、CD、衛星放送と何でも使いこなす。彼らの生活には科学技術の果実が溢れている。この若者の製造業離れが今日世間を騒がせているにしても、一方で製造業は彼ら(の購買力)に負っている。彼らは、目の肥えた科学技術の消費者なのだ。しかし彼らは、スペインの哲学者オルテガ(1883~1955)がいう『原始人』だ。文明社会に突如現れた原始人にとって目にするものはすべて『自然の贈り物』であり、それが持つ人工的性格や歴史的、社会的コンテクスト(状況、事情、背景)にまで考えが及ばない。現代の若者は科学技術の果実に強い関心を持つ一方で、それを生み出すプロセスに無関心である。彼らは原始人なので、いまそこにない物は見えない。彼らは眼前にある科学技術の果実を獲得するための資金の調達に奔走する。その結果、製造業で働くことは短い時間で資金を稼ぐには適していないことを知る。だから、製造業への関心がなくなる。彼らは無邪気な放蕩息子だから、(科学技術の果実は)誰かが生産しなければ消費も立ち行かないことには気が付かない。生産に対する責任感もないし、他人の忠告を聞くつもりもない。しかし彼らは科学技術の成果に対する受容性の高さにおいては抜群である。その受容性の高さを科学技術の発展力に転化させるのは結局初等教育しかない。今日の教育は、現代の製造業や科学技術と、実際に子供たちが触れるその成果との間に、大きい隔たりがある。その間隙を埋める努力こそ必要である」と。最後に先生は、今日世間は、現代の若者の製造業離れを嘆くが、これを矯正するのは初等科教育において、もっとしっかりと製造業と科学技術の成果との関連を教育することだと。同感である。

4:天声人語「子供たちの希望のなさ」から
060324の朝日新聞天声語に、村上龍さんの発言、子供達の「希望のなさ」の理由が「子どもは、20年後、30年後の自分の姿を、いまのおとなに見ようとする。親たちの世代は、ちっとも楽しそうでない。おとなたちを見ていても希望がもてない」を紹介している。

私はこの意見に若干疑問を感じる。自分の将来像を描き出すことは勿論いつの時代でも難しい事には違いない。だが、何故その解を親の姿に求めるのか?今日テレビはドキュメンタリーやドラマで多くの職業を描き出してくれており、私の時代に比べてはるかに分かりやすい。それなのに何故それ以上に突っ込めないのであろうか?子どもたちがそのように育ったのは誰の責任かをこそ考えるべきであろう。私は子どもたちの想像力の不足と、「楽しさ」だけが職業の選択肢かと嘆くところだ。

上記のオルテガの説にも通ずるが目の前に与えられたものしか見えないということの原因は全てが「映像文化」の責任ではないか?活字文化、ラジオ、白黒映画で育った我々世代は活字の行間にある心を読み取り、音が作り出す空間に映像を見、白と黒の間に多彩な色を感じてきた。それを可能にしたのは想像力である。勿論、活字文化や往時の映画が最良というつもりはないが、今日テレビ、ビデオ、ゲーム、マンガと映像文化が多すぎ、これによる人間の想像力の退化は必然であろう。その責任は影像文化を製作し、提供する大人たちにある。もっとバランスよく提供して欲しい。

職業に「楽しさ」が有ってもよいし、有ることは幸せであろう。だが、苦しくとも達成感のある素晴らしい職業も沢山ある筈だ。
豊かな「モノ社会」が子どもたちに及ぼした弊害、それはハングリー精神・困難に挑戦する意欲を育てず、工夫・努力による創造的喜びとその達成感を阻害した。「金銭万能の社会」の幻想を子どもに教え、一方で無気力、無分別、金銭感覚麻痺の子を生む。

だが、村上さんがいうように子どもが、20年後、30年後の自分の姿を、いまのおとなに見るというなら、私の下記の結論と同じように大人は子の尊敬に値する模範的人間でなければならない。

純真無垢で生まれ落ちた子どもが悪の道に落ち或いは無気力に育つのは全て大人社会を見習い、その影響に染まるということであろう。子ども自身が悪事を本能的に発明することも少しはあるとしても、先ずは大人社会の悪の模倣から始まるものであろう。

また、子どもの悩み、苦しみは、際限のない欲望で利益を追求して行く大人社会が生み出した環境に、溺れかけた子の悲鳴に他なるまい。
子どもの挙動・反応は、大人社会の矛盾、罪悪の全てを写し出したもの(鏡)であり、大人は子どもを責める前に己を反省し、素直な子が育つ環境をまず造ることである。(2006.03.25)

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