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2006年5月6日

2006/05/06

52:大原美術館と倉敷の街見て歩き

先月下旬(2006.04)、私はかねての念願が叶い001_2倉敷大原美術館を訪れた。 美術館前の倉敷川一体の柳並木の若葉は、なまこ壁の蔵屋敷と調和して心なごむ美しさであった。思わずカメラのシャッターを切ったところだ。思い出は心眼に収めたいところだが、ついつい文明の利器にゆだねてしまう。
私の左胸に埋め込んでいるペースメーカの電池入れ替え時期が近づき、最初の入院時(1999)の日記を読み返していたら、11.03の欄に「見応えあり。是非大原美術館を見たい」と書いていたのだ。「ホリデー日本」というTV番組で「睡蓮を手にした男、大原孫三郎、児島虎次郎」として大原美術館の紹介があった。我が家から2時間ほどで行ける距離に6年半の歳月が過ぎていた。002

私が、車も免許も持つという車社会の恩恵を満喫している現代人なら、そんな時間は要らなかったはずだ。ある後輩の話、「どこかへ行こうと思い立って走り出した。気がついたら500キロほど離れた温泉地にいた」などという芸のできる時代だ。
だが、私のような芸のできない人間には、動機、目的地があって行動が伴うのだ。このたびは一寸不純だがその動機がテレビで見た総社の「サンロード吉備路」(注4)という宿の、さくら鯛だった。こうして私はさくら鯛と美術品を満喫する吉備路の旅に出た。003

美術館についての私のわがまま:
その1:私は作家(絵画、書など)の生涯作品を時系列に並べた展覧会が好きである。不器用な私は多くの作家の作品を並べた展示では印象が散漫となって、整理がつかない。直感的に好き、嫌いをいう程度なら混在型でいいだろうよと偉そうにいっておくか。
私が希望するような展覧会は「企画展示」ということになろうが、作品を借り出すことが大変なためであろうか、滅多に存在しない。004
だが1987(昭和62年)秋、京都近代美術館で見たカンディンスキー展の作品102点は、フランスはポンビドー・センター、ドイツはミュンヘン市立美術館レンバッハハウスから、ニューヨークはグッゲンハイム美術館からと、三大コレクションを中心に、その他7カ国から借り出されたものであり、彼の50年にわたる作品が作画の年代順に鑑賞出来、作風の変遷が明確に把握できた。
1989(平成元年)3月、奈良の県立美術館で見たルノアール展も国内16機関、アメリカ16機関、フランス5機関、スイス、オランダ、ノールウエイなど合計40機関から借り出された作品約150点が並び、ルノアールの本質が掴めたような錯覚を覚えるほどの満足感を味わった。

その2:美術館は館内での撮影を何故禁止するのであろうか?フラッシュによる顔料の劣化はあるかも知れない。ではフラッシュ禁止でよいではないか。素人撮影の写真で複製版ができるほどの傑作が撮れるはずはない。私の願望は他人の邪魔にならない範囲で会場の雰囲気を撮り、思い出として残したいのだ。ルーブルはその点寛大だった。フラッシュこそ禁止だったが、床にアグラをかいて見入っている子供達もいるほど、マナーにも寛大だった。美術館は何のためにあるのか?心豊かな美術愛好家を増やすことではなかろうか?そうであればなるべく規制緩和して欲しい。展示室内の雰囲気を撮した一枚の写真が、再度の訪問を促す動機にもなるかもしれないのだ。
なるほど傍若無人の振る舞いで迷惑をかける人もいる。殊に満員の盛況時は問題だろう。
そういった不心得な人への配慮からであろうか。

ではこの大原美術館はどうであったか。場内撮影禁止とあった。しかし、当日は平日でもありゆったりとした雰囲気の中で、自慢の名画、例えばゴーギャンのかぐわしき大地、エルグレコの受胎告知、ルオーの青い鼻の道化師、モディリアーニのジャンヌ・エピュテルヌの肖像、ピカソの鳥籠、ドガの赤い衣装をつけた3人の踊子、モネの睡蓮、マティスの画家の娘ーマティス嬢の肖像など、美術全集などで見た名作絵画を間近に、心置きなく鑑賞できたことは幸せであった。その瞬間、撮影禁止への不満などすっかり忘れていたのだ。あとでインターネットで調べたら、(注1)に徹底した情報公開がなされており、事前の予習も事後の復習も十分に可能となっている。

児島虎次郎の業績:
アイビースクエアーにある児島虎次郎館には、恐らく彼の全作品であろう100点ほどの名画が制作時代順に展示されており、私はここで虎次郎の画歴の変遷をつぶさに読み取れたように感じた。
東京美術学校時代および卒業直後の新進気鋭の画家時代の作風は極めて精緻ながら色彩的にも暗く、ある意味で当時の日本社会を反映したのであろう。
渡欧、留学中の作品は一転して明るく、パリー社交界にデビューした意気揚々とした作家の風貌を感じさせる華やかな作品が多い。これはフランスの何某の作品か?と見紛うほどの洋画である。印象派、象徴派を初めとする当代ヨーロッパの画風に触れて、模倣、習得、開眼の時代の作品であったろう。
しかし帰国後の作品には、これからの進路に迷いを感じたものと思われるふしがある。日本人作家として、己のアイデンティティを何に求めるか?彼は中国、朝鮮を旅する。恐らく東洋的テーマとモチーフの中にしか己の存在は無いと悟って模索したものと思われるが、道半ばの47才で急死して終わる。もし彼が天寿を全うしていたら日本独自の画風を確立していたものと惜しまれる。
しかし、彼は画家としての確かな目で西欧作家の作品を選定し、ヨーロッパ名画に接することの少なかった日本の美術愛好家のために、スポンサー大原孫三郎の資金を得て橋渡しを行ったものであり、その業績は大きかった。以上は私の感想である。

以下は(注2)の一部を引用して紹介するものである。
コレクションの形成:
大原は、自分と1歳違いの洋画家・児島虎次郎にことのほか目をかけ、パトロンとして生涯援助していた。児島は1908年から足掛け5年間、大原の援助でヨーロッパへ留学していた。彼はその後もさらに1919年5月–1921年1月と1922年5月–1923年3月の2回に亙って、大原の援助で渡欧している。その主たる目的は画業の研鑚であったが、児島は、ヨーロッパへ行く機会のない、多くの日本の画家たちのために、西洋名画の実物を日本へもたらすことの必要性を大原に説いた。大原は児島の考えに賛同し、何を購入するかについては児島に一任した。こうして児島はヨーロッパで多くの西洋絵画を購入したのである。
モネの『睡蓮』は晩年の画家本人から児島が直接購入したものであり、マティスの『画家の娘』も画家本人が気に入って長らく手元に置いていた作品を無理に譲ってもらったものだという。大原美術館の代名詞のようになっているエル・グレコ『受胎告知』は、1922年、3回目の渡欧中だった児島が、パリの画廊で偶然見出して購入したものと言われる。その他、トゥールーズ=ロートレック『マルトX夫人の像』、ゴーギャン『かぐわしき大地』などの名品は児島の収集品である。これらの西洋美術の他に、エジプト美術、イスラム陶器、中国美術なども児島は収集した。これらの収集品は、美術館開館以前にも何度か公開され、大評判を得ていた。

1929年、児島が他界し、これを大いに悲しんだ大原は、児島の功績を記念する意味をもって、その翌年に大原美術館を開館したのである。大原美術館には、児島虎次郎以外のルートから入手した作品もあり、ルノワール『泉による女』は、大原孫三郎が援助していた画家のひとりである満谷国四郎が入手したもので、ピカソ『鳥篭』、ドラン『イタリアの女』、スーティン『鴨』などは画商・福島繁太郎(1895年–1960年)のコレクションに入っていたものを第二次大戦後、大原美術館が入手したものである。また、大原孫三郎の後を嗣いだ大原總一郎(1909年–1968年)も文化人として知られ、フォーヴィスム以降の現代絵画、近代日本洋画など、新たな収集品を付け加えた。以上紹介文である。

倉敷の街:
各種資料によれば
今から約350年をさかのぼる江戸時代の寛永19年(1642)、倉敷は天領(江戸幕府の直轄の領地)となり、米や綿花の集散地として、大小の舟がひっきりなしに往来する賑わいの町となったという。年貢米を集め、海路で江戸へ運ぶという役割を担い、商都としても発展。今日の街の景観は、当時の豪商の屋敷や白壁の蔵の名残という。

しかしその倉敷の町も明治時代を迎え、活気を失いかけてきたという。しかし「ウイッキペディア(下記)」にも記述されているように、大原家の献身的努力によって今日の活気を取り戻したといってもよかろうと私は感じたところである。
大原美術館の開館:
「大原美術館は、倉敷の実業家大原孫三郎(1880年–1943年)が、自身がパトロンとして援助していた洋画家児島虎次郎(1881年–1929年)に託して収集した西洋美術、エジプト・中近東美術、中国美術などを展示するため、1930年(昭和5年)に開館した。西洋美術、近代美術を展示する美術館としては日本最初のものであるという。…
昭和初期、一地方都市にすぎなかった倉敷にこのような美術館が開館したのは画期的なことであった。ニューヨーク近代美術館の開館が1929年であったことを考えれば、創設者大原孫三郎の先見性は特筆すべきであろう…。

大原孫三郎は1880年、親の代から紡績業を営む、倉敷の名家に生まれた。石井十次、日本の児童福祉の先駆者であり、岡山孤児院の創設者との出会いが大原の人生を変えたという。カトリック信者であった石井の影響で自らもカトリックに改宗した大原は、事業で得た富を社会へ還元することの重要性に目覚め、大原社会問題研究所、労働科学研究所、倉敷中央病院などを次々と設立。大原にとっては美術館の創設も社会貢献の一環という認識だったようだ…とあった。

2006.05.02朝日新聞から:
三代目理事長として指揮をとる大原謙一郎氏は朝日新聞のインタービューに答えて次のように述べている。(視点、関西スクエアーから:「美術館の使命」)
「世界は狭くなり、それぞれの国、民族、文明の距離も縮まりました。互いに理解し敬意を持てば、世界は素晴らしいものになるでしょう。しかし、敵意と無理解がはびこる時、世界は摩擦と悲惨の温床となる。それはいやというほど実感させられています。
このような状況に対して、倉敷から異文化の相互理解への強いメッセージを発し続けているつもりです。個々の企画展だけでなく、日本の歴史と伝統がある町並みを舞台に日本、中国、欧米、エジプトなど世界各地の古代から21世紀までの美術の精華を展示するのは個人のレベルを超えた、美術館の重要な使命の一つだと考えます…。
入館者数は瀬戸大橋開通の1988年の、125万人をピークにその後40万人をきりました。…最近、入場者数が少し戻り、ミュージアムショップの売り上げが増えてきたのは嬉しい傾向です。…」。  (2006.05.06)

注1:大原WEB展示室、大原美術館の歴史、 所蔵品案内など
http://www.ohara.or.jp/200511/jp/1_web/1/menu.html

注2:ウイッキペディア、大原美術館:(コレクションの形成、展示館、主な収蔵品など)

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%8E%9F%E7%BE%8E%E8%A1%93%E9%A4%A8#.E3.82.B3.E3.83.AC.E3.82.AF.E3.82.B7.E3.83.A7.E3.83.B3.E3.81.AE.E5.BD.A2.E6.88.90

注3:倉敷を歩く:(個人のホームページですがよく倉敷が紹介されています)
http://home.q08.itscom.net/you99/kurasiki.htm

注4:サンロード吉備路
http://www.sunroad-kibiji.com/index.html

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