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2007年10月31日

2007/10/31

No.66:再びスペイン、内戦のころ

前回(No.65)の「パルケ・エスパニア印象記」に私は「パエリアか?パエジャか?」と疑問を書いた。早速ある方からコメントで明快な回答を頂いた。御礼を申しあげると共に、ここにその一部を付記させて頂く。

「パエリヤの件ですが、私の知り合いのパルケエスパーニャで働くスペイン人は皆「パエージャ」と言います。…彼らは(アンダルシア出身もカタルーニャ出身もバスク出身も)普通に「パエージャ」でした。
スペイン語の(lla)を(ジャ)と発音する事が多いです。sevillanasはスペイン村のコンテストでは「セビリャーナス」と言ってますが、スペイン人たちは皆「セビジャーナス」と発音してます…」と。
これから私も「パエージャ」で行きたい。

さて本論。ある日(1990年頃)私は「斜陽はるかな国」(逢坂 剛、朝日新聞連載小説)に出会う。
舞台はスペイン。ストーリーは東京とスペインとを往復する。タイムトンネルは50年前のスペインの硝煙弾雨の中に抜ける。そんなストーリーだが、難点は民族名と小政党名の略記号が覚えられないこと。この小説のためにやむなくスペインの歴史を勉強することになる。太平洋戦争中、学生は15、16才から学徒動員で軍需工場に配属され、飛行機部品などの生産に携わる。私は弁座とクランクシャフトを削っていた。こうして西洋史の授業も中断。脳細胞はブランクのまま50年をすぎていた。

スペイン内戦は、1936年(昭和11年)7月17日スペイン領モロッコで軍部の反乱に端を発し2年8ヶ月後の、1939年(昭和14年)4月1日、反乱軍フランコ将軍側のマドリード占領で終わる。以後フランコ将軍は1975.11.20(昭和50年)82才での死亡まで、実に36年余にわたってスペインに独裁体制を敷くことになった。

内戦勃発当時、日本も荒れていた。その年2月、日本ではクーデター2・26事件が発生する。陸軍の皇道派反乱将校15名が下士官、兵1400人を率いて岡田啓介首相ら政府要人を襲い、斉藤内大臣、高橋蔵相らを殺害。私は小学校2年生、号外の慌ただしい鈴の音だけが頭のどこかで今も鳴り響いている。クーデターの結末は、純真無垢の青年将校を煽ったとされる真崎甚三郎大将を含む全現役大将(新任2名を除き)が予備役編入となり、反乱将校15名は全員死刑となる。

スペイン内戦の要約
内戦の原因はこれより遡ること5年前の1931年(昭和6年)4月、左派系勢力がブルボン王朝のアルフォンソ13世を倒して民主政府(左派優勢)を樹立したことに端を発した。第二共和政府と呼ばれるこの政府は、共和行動党(左派)、社会党、急進社会党、一部の右派共和主義者からなる人民戦線であった。

この政府に対抗して反乱したのが右派フランコ軍。これをドイツ、イタリアのファシスト政権が武力で支援する。
    
スペイン共和国政府は、支援をフランス、イギリスに要請する。しかしフランス、イギリスはこれを断り、27ヶ国が(内政)不干渉のもとに結束してスペインを見放す。

これを見かねたソ連は、スペイン共和国政府を支援する。
こうしてスペインを舞台にドイツ、イタリア、ソ連が戦争状態で死闘を展開する。

スペインを救え」、「マドリードをファシストの墓場に」と、世界の良心?がこの内戦に義憤を感じ立ち上がる。世界55ヶ国から外国人義勇兵4万人、医療部隊、救援組織2万人がピレネーを越える。これら国際義勇兵の大半は共産党員またはその同調者であったが、いずれにせよ、彼らはスペイン共和国の大義のために戦ったという。

ジャック白井はただ一人の日本人義勇兵としてアメリカから参戦して1937年(昭和12年)7月11日戦死。石垣綾子著「スペインで戦った日本人」はその評伝である。
ヘミングウエイの「誰がために鐘は鳴る」、アンドレ・マルロウの「希望」、ジョージ・オーウエルの「カタロニア賛歌」もこの戦場から生まれた戦争文学という。

日本政府は1937年(昭和12年)12月1日、スペイン共和国政府と国交を断絶し、反乱軍フランコ政権の正式承認を宣言する。
この背景に我が国はドイツ、イタリアへの満州国承認を期待した駆け引きがあったのではないか(満州国建国宣言は1932年、昭和7年3月1日)ともいわれている。ちなみに、
イタリアの満州国承認は1937年(昭和12年)11月30日、
ドイツの承認は翌1938年(昭和13年)2月25日。

日本政府のドイツ、イタリアとの関係は、
1936年(昭和11年)11月25日、先ずドイツと「日独防共協定」を締結、
1937年(昭和12年)11月6日、イタリアもこれに参加して「日独伊三国防共協定」が締結され、日本のファシズム(全体主義)化が進む。

内戦は何故起こったか?
スペインが抱える複雑な民族問題、スペイン社会の深刻な矛盾(宗教、教育、選挙、農民)に基づいた階級闘争といわれ、将軍フランコのクーデターは1814年以来、実に202回目のことという。その芽は常に内在したというべきであろう。
                                                                              
スペインは、1982年社会労働党が政権を取り、書記長ゴンサレスのもと、民主化が進められ、夏季オリンピック(バルセロナ1992.7.15~)、セビリア万博(1992.4.20~10.12)等を成功裏に終了し、その後の選挙にも社会労働党がかろうじて政権を維持した。(原文:1990.6平成2年6月)

その後の民主化状況
以上は1990年時点で私が纏めたもので、その後の政情については
日本大学法学部准教授 池田 実 先生の [概説]「スペインの民主化過程」に明解に解説されているので一部を引用させて頂く。

「スペイン現行憲法は、20世紀後半につくられた憲法としてはめずらしい、王政復古の憲法である。しかもそれは、37年の長きにわたる厳しい独裁体制を経験したスペインの為政者・国民が、熟慮と忍耐を通じて歴史上初めて獲得した、広範な国民的合意に基づく真の民主主義国家の憲法であった。フランコの死から現行憲法制定までの移行過程(トランシシオン・エスパニョーラ)は、民主化の著しい成功例であるばかりでなく、君主制と民主制の完全な両立、さらに、現代スペイン民主政治の発展と安定のために国王が果たしている決定的に重要な役割を裏付けるものとなっている。

フアン・カルロス国王の民主化戦略
フランコは、自ら養育したフアン・カルロスに、フランコ体制を継承させるつもりだった。しかし、若い新国王は、その強大な権限を、独裁を継承するためにではなく、フランコ体制に終止符を打ち、この国に立憲民主制を確立するために用いた。
国王は、クーデタや内戦に明け暮れたスペイン近代史の教訓にかんがみ、反体制勢力との積極的な接触・対話を通じて合意形成に努め、制度改革の面では、急激な変革を避け、フランコ時代の法制の枠組を通じて漸進的に立憲民主制に移行する方法を選んだ。…。

スペイン憲法の吹きだまり: 04. [概説]スペインの民主化過程
http://constitucionalismo.way-nifty.com/quijote/cat216712/index.html

参考資料:                      
       逢坂 剛:斜陽はるかな国、朝日新聞連載
   斎藤 孝:スペイン戦争、中公文庫、1989年9月10日、初版
   川成 洋:スペインへの道、れんが書房新社、1983年12月15日、初版
   飯塚一郎:大航海時代へのイベリア、中公新書、1981年2月25日、初版
   石垣綾子:スペインで戦った日本人、朝日文庫、1989年2月20日、第一刷
       中村政則編:「年表昭和史」 岩波ブックレット シリーズ昭和史No.15 
              1989年9月25日 第5刷発行
      インターネット資料:
   http://www.kashiroman.com/lec/espana.html スペイン入門      (2007.10.31)                                                         

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