« 2008年1月28日 | トップページ | 2008年2月27日 »

2008年2月11日

2008/02/11

No.69「私の愛国心」

山田久美著「ボストンに恋して」を、私はブログNo.41(06.02.02)で69a 紹介した。この本を読んで以来、単に休日として過ぎてしまうことの多かった私の祝日を反省し、国旗だけは忘れずに掲げ、もっと有意義に過ごそうと努力している。

今日2月11日は「建国記念の日」、勿論日の丸の旗を掲げた。我々世代では、小学校の教育のせいもあるが、日の丸の旗は勿論日本の国旗であり、国旗を掲げることは愛国心の表明でもある。

戦後の復興・建設の時代に生き、その時代の繁栄に寄与したという誇りのある我々世代にとっては、日の丸の旗は我が国発展の「一里塚」に立てて来た努力賞のようなものでもある。                                   69b_2

戦後日本の復興は、焼け跡の廃墟の中から衣・食・住の全てを一から築き上げることで始まった。私はその時代を、表現を許されるなら「後進国時代」と呼ぼう。この時代、ささやかな目標を達成した時に、我々はその一里塚に社旗とともに日の丸の旗を立てて喜び合った。

その後我が国の復興は産業構造的に見れば、石炭、繊維、肥料、セメント、砂糖、紙・パルプ、造船、橋梁・道路・ビル・住宅建設、石油化学、白物家電などに進展・変遷した。製品は高度化・複合化して、経済的・技術的先進国への道をばく進する。「先進国に追いつけ追い越せ」を合い言葉にして努力した「発展途上国」時代。我が国は日の丸の旗を世界のあちらこちらに立てて来た。いや相手企業も日の丸の旗を掲げて敬意と歓迎の意を表する。当然愛国心をくすぐられる事態でもあった。

こうしてその喜びが更に自信となり、国威のグローバル化が愛国心を育ててゆく。 しかし自動車、新幹線、航空機、制御技術、電子部品、通信機器、情報機器へと、重厚長大産業から軽薄短小と言われた方向・分野に発展し、世界を相手とした経済活動へと拡大されると共に、剥き出しの愛国心は次第に洗練され、影を潜めていったように感じられる。

今日の世界を見ても判ることだが、後進国、発展途上国時代が最も愛国心の旺盛な時期であり、国旗や国歌に対する尊敬も敬愛も育つ。技術、経済分野において追われる身となっている日本でありながら、生活の高度化からハングリー精神はなくなっている。こういう環境では愛国は育ち難いとも考えられるが果たしてそういう次元の問題であろうか?

私はこのブログのNo.20(05.06.27)に清水幾太郎先生の著書「愛国心」を要約して示した。その最後にこうあった。

「…国家が神聖な祖国として燃え上がるためには、内部の問題を民主主義的方法によって解決して行く必要が生まれ、民主主義によって『一つの祖国であることが出来るように』と変遷する。民族のメンバーが言語、文化、習慣を共有するとはいえ、なお、思想、信仰、利害などに多くの差異と対立とがある。民主主義は各人が合理的な理解能力を持つことを前提に、相反する思想、信仰、利害であっても自由な討議を通じて了解と一致に導く。こうして、近代の民主主義がエスノセントリズム(民族中心主義)に合理化を施し、原始的棘(傲慢、偏狭、残忍さ)を抜きとっている。こうして愛国心は民主主義によって近代化される…と。

しかし先日、「アメリカの愛国心の強さ」というブログを読んで感じたことだが(アメリカの歴史を理解しないではこの問題を論じる資格はないのかも知れない)アメリカが民主主義の見本のような国であったとしても、「フロンティア精神」、「多民族国家」という歴史的経過が「エスノセントリズム(民族中心主義)」を未だ一部残して、お互いの「存在」を主張し合っているのではなかろうか。

ひるがえって日本、「存在」を主張する必要性もないほど、同一性の高い国であり、そのことが愛国心・国旗への敬愛を淡泊にしているのかも知れない。その意味では日本在住の外国籍の家庭では遠慮なく国旗を立ててはどうか?そのことが日本人の民族意識を高め国旗、国歌への敬愛を高めると思う。しかしこのことには、治安、安全の問題も絡むだけに簡単に考えてはなるまい。

清水先生は更にいう。愛国心は個人及び世界の確立という考えによって近代人にふさわしいものに高められた。「国家が彼に何を約束し、何を与えるか」ということと、「彼が国家に対して行うサービス」。この両者の計算と比較は、人間が自由な個人として、また自己の生活に責任ある個人として定立してこそ実現し得る。最後の責任は自分が負わねばならぬものであるから、頼むべきは自己の判断と良識であろう」と。要は「盲目的愛国心でなく、当然そこにギブアンドテイク的取引が在って」しかるべきことを述べている。                                           今日、この国の国民にはもう「医・食・住の安全と安心」はない。であれば福田さんよ、安倍さんよ、国民に一方的に愛国心など求めないで下さいといいたくなる。「行政の怠慢」と「国民の拝金主義的堕落」。私は国家・行政だけにその責任を持てというのではない。「安心と安全」をなくした直接的原因は一部国民の不心得、道徳的廃頽にあろう。しかしその背景に、道徳教育を実施して来なかった国家の責任があろう。清水先生の解説を読んだとき、十分に理解出来なかった「国家が彼に何を約束し、何を与えるか」ということと、「彼が国家に対して行うサービス」…というくだりが、いまよく理解できたように思う。

私の結論としていえば、「愛国心は本来自発的に素直に発露・発現されたものであろう。しかしその段階の愛国心には動物的・本能的傲慢さ、偏狭さ、残忍さが残る。だが、国際関係が進展、複雑化し、相互の文化理解なくしては共存出来ない現代においては道徳教育、歴史教育は勿論、国際間での交流体験が真の洗練された「愛国心」となるのではなかろうか?と。

ところで戦時中、徴兵年令にまで達していなかった私自身は、戦場の「不条理」を体験していない。2,3年の年令差で戦場を踏んだ世代の先輩は、戦場における己の存在の無意味さ、空虚感、希望のない明日への絶望感などから、軍幹部への不信感を深めたようである。私はその世代の苦悩を知らないだけに日の丸の旗への屈辱的想い出や深刻な忌避感はない。(2008.02.11)

(1)清水幾太郎著「愛国心」、(昭和25年3月10日初版)昭和48年1月20日発行、28版

(2)山田久美著 「ボストンに恋して」 主婦と生活社 1991. 4. 8 初版

(3)アメリカの愛国心の強さ: http://www.kayo2u.tv/nyd/archives/000067.html

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2008年1月28日 | トップページ | 2008年2月27日 »