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2008年2月27日

2008/02/27

No.70:「統合学」とは何だ?

625590 日曜日や休日に家にいると、時々キリスト教信者の訪問を受ける。インターホン越しに「私は近所の○○ですがちょっとお邪魔します」とくる。

ついで例えば「最近の青少年の非行やいじめについてどのようにお考えですか?あるいは世界平和のために今何かしたいと思いませんか?というような至極真面目な切り口で問いかけて来る。暇があれば聞いてやってもよいと思わせるような話題だが、私が「(あなたは)キリスト教の方ですか?」と問うと「ハイ」という返事。「いや、折角ですが私は仏教でしっかりやっていますから」と断る。それでも粘って勧誘してくる人には「私はもう高齢ですから宗旨変え出来ません!」で交渉は終わる。”しっかり”と言っても仏教に帰依しているわけではない。断るための常套語である。心のどこかに「葬式仏教*1」を甘受しているのだ。

ところで、我が家の菩提寺は急行列車で3時間ほどかかる遠隔地にあるので日頃は近くの日蓮宗の寺でお世話になっている。その新年祈祷会に参加した時のことだ。本堂に置いてあった新聞(日蓮宗新聞平成20年1月10日号)に「統合学*2」という言葉が躍っていた。
「近代文明の末期症状的今日の世の乱れは『哲学と科学の分離思考がもたらしたもの』であり、この『切断の原理』が物理、生物、人間科学を極限の孤立にまで追いつめてしまった。…この近代文明の欠点を補完する運動が急務であり、統合学(専門分野を横断的に貫き、文字通り異分野を統合の視点で捉えること)が混乱の解決に貢献すると期待される」というような主旨の記事であった。080216jpg

2007.10.29、現代社会の混迷を救済する複雑系・統合科学の樹立を目指した日独協力による「統合学Integrative Wissenschaft」学会設立記念の、「シンポジウム」がボンで開催されたという。
極めて難解な記事であり拾い読みした程度だが、現実を考えると学会を設立してスタートするというやり方に私はいささか迂遠すぎるのではないか?と感じた。しかしこの取り組みは、「葬式仏教」などと言われる日本仏教から脱却することに寄与するであろうと評価した。

ただ、この種の活動は今初めて聞く概念ではない。1965年頃、よく耳にした「インターディシプリナリーinterdisciplinary」は「学際的な、異なった学問分野にまたがる、(学問の)総合の、各種学問分野の合同」などの意味だが、今日の統合学はこの意識と同一のものと私は解釈した。
当時の問題意識は組織や学問領域が、発展に伴い細分化され過ぎ全体を見失うというような問題であった。経済発展期の真っ直中にあった当時、会社の組織で言えば、部は1課、2課、3課…といういように拡大と同時に細分化され、もとの「部」が持つ遺伝子が各課に伝わらない程に課は独自の発展を遂げ、同時に課と課は相互に接点をなくした異質の組織に変質して行くなどの弊害が発生した。技術領域も細分化により問題の本質を見失うという問題が発生し、ここに境界領域をまたがる総合的視点からの検討が必要と提言された。
企業では組織変えでこの危機を克服したが、技術領域においては必ずしもこの概念は定着しなかったように思われる。インターディシプリナリーと言う概念はいつの間にか消滅していた。
(この考え方の先駆的論文は中根千恵東京大学教授の「タテ社会の人間関係*3」ではなかったろうか?記憶が定かではないが、日本社会の縦の強さとその弊害を解析した論文であったように思う。この本の心髄に当たると思われるエピソードを僅かな記憶から紹介しよう。
イギリス留学中お世話になったイギリス人に、「このご厚意に私はどのようにしてお返しできるか心が痛みますと挨拶をしたところ、『それは簡単ですよ。あなたがどなたか困っている人を見かけたとき、私があなたにして上げたような親切をして上げなさい』と言われ、今まで発想しなかったこの言葉にはっとした」とあった。)

さて寺の新年祈祷会に集まって来た人達はかなりの高齢、善男善女でもあった。お上人の説教は、まず「六方礼拝」の大切さを説く。東は家族同士の親愛、西は夫婦の敬愛、南は上下の尊敬、北は友人・知人の信頼、天はご加護への恭敬、地は全ての人に対する互恵と説く。その内容は生者に対するもの。その大方は「修身(小学校道徳教科書)」や「儒学」で学んで来た徳目であり、理解できるというよりも既に理解している。とはいえ、その知識は子や孫に教え伝えて人生の知恵、生きる力にして貰わねばならぬ。問題は受け入れ側の素地・体勢が今日全く崩壊しており素直に受け入れては呉れないことである。

ではどのようにして改めるか?要点をいえば、小学校で徳目をしっかり教え込むことだ。前・安倍内閣時代の平成18年10月10日内閣に「教育再生会議」が設置され、学校教育に「道徳教育」を加えることも検討されたように記憶している。私もそれが最善の施策と考えるものの一人である。その委員(有識者*4)の中に宗教関係者が見当たらないのは何故だろうか?

新渡戸稲造著「武士道」(1899.12著*5)の序文に「10年ほど前、ベルギーの法政学の大家故・ド・ラヴェレー氏から、日本の学校においては、宗教教育はなされていないのですか?とたずねられ、ハイと答えたところ、宗教がない!ではどうして道徳教育を授けるのですか?とくり返した氏の言葉に答えられず(当時)、後日自分の善悪の判断は「武士道」であったことを思い出してこの本を書いた」とある。

私は「武士道精神」が宗教と同格とは思わないが、武士道精神は例の「葉隠」が「葉隠論語」とも呼ばれるように儒学を下敷きにしていることは予想される。従来から日本人が善悪判断の基準・規範として教わってきた徳目は儒学、宗教あるいは修身にあった。

冒頭のキリスト教信者の行動は、それが入信の勧誘であるとしてもなかなか意欲的、積極的である。話題は「生者」に密着している。このように諸外国においては宗教が血や肉となって人生の行動規範、生活信条、行動力そのものになっているように思われる。

それに比べて我が国の宗教(ここでは仏教)は日常生活の中に生きていない。その理由は日本人の宗教的ノンポリにあると思われる。穏やかな日本列島には日常の生活に一神教的強力、強大な指導者を必要としない。こうして宗教への信頼、期待、執着のない人間が生まれたものであろう。
しかしそれでは済まされまい。宗教は生・死の問題の他に道徳の規準・規範を教えている。「宗教」なしに、道徳の規準・規範を何に求めるというのか?という思いは故・ド・ラヴェレー氏に同じである。

この意味では難しい統合学に走る前に宗教家として子ども達に先ず徳目をしっかり教え込む方法を検討すべきではなかろうか。老い先短い老人や、既に己をコントロール出来る熟年者を主たるお客として、葬式仏教などと呼ばれていては仏教の将来に明るさはない。
キリスト教とて宗教的ノンポリの日本では信者数を拡大することに苦労は多いものと思われるが、キリスト教では葬儀、結婚式の他に、日曜礼拝、子供会などの各種集会、ボランティア活動など子供や学生に魅力的活動を行っており、何よりも「生身の人間」を対象としているという印象に強みがあろう。仏教はその活動を見習うべきである
。(2008.02.27)

*1 葬式仏教
   http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%91%AC%E5%BC%8F%E4%BB%8F%E6%95%99
   出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
*2 統合学会:日蓮宗新聞:平成20年(2008)1月10日号
提唱者:宗教法人妙見閣寺代表役員、非営利法人ドイツ大聖恩寺理事長、全日本経営   人間学協会理事長、国際永久平和祈念祭典総監督、総合学術国際研究所理事長竹内日祥
*3元東大教授中根千恵「タテ社会の人間関係」講談社現代新書1967
*4教育再生会議有識者
  http://www.kantei.go.jp/jp/singi/kyouiku/kousei.html
*5新渡戸稲造「武士道」講談社インターナショナル㈱1998.6.18第1刷           

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