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2012年9月27日

2012/09/27

No.88 ビジネスマンの父より息子への30通の手紙を読んで…伝えることの難しさ

キングスレイ・ウォード著「ビジネスマンの父より息子への30通の手紙」(城山三郎訳)を読んで私は複雑な気持ちになった。「とてもこんな立派な親父にはなれない」、「これは帝王学であり、誰彼に当てはまるというものではあるまい」。「人生のあり方、生き方をこのような形で伝えて果たして効果があるであろうか?」とも感じた。それでいて無視出来ないのである。

著者はカナダの化学会社社長。この本は、息子が有名私立大学に入学した17才から、息子に社長の椅子を譲るまでの20年間にわたり、手紙形式で書き送った処世訓30通である。
私はこの本を読みながら、親の生きざまや考え方を伝えることの難しさを痛感した。しかし要は悟らせることではないか?そうであれば日本には日本流のやり方もあるのではなかろうかと。

文明が「環境破壊」という伏兵の出現で足踏みさせられたとは言え、科学と技術に支えられた「文明は本質的には前進的、累進的であり、愚かな繰り返しはない」。それに比べると人間に関わる諸々のもの、思想、宗教、芸術、政治、経済、サービス、人生そのもの、総括的に文化一般は、周期的である。それでも総体としては緩やかな螺旋階段を漸進的に上っているといえるかもしれない。そういった文化を親から素直に学ばなかった私には反省もある。

今や私も親の立場となり、人生の生き様を如何に伝えて行くかを考えねばならないが、この文化の伝承の難しさこそが、この本が多くの読者に感銘を与え、ベストセラーともなった理由であろう。読者は親であり、親のための教科書である。この本の中に、17世紀の英国の詩人ジョージ・ハーバードの言葉として著者が紹介した一語、「一人の父親は百人の教師に勝る」がある。この言葉を、広島学院高等学校、ロバート・ラッシュ校長もまた中国新聞に寄せている。まさしく真理であろう。
キングスレイ・ウォード流の完璧なまでの教育は到底真似出来ないとしても、日本滞在33年のロバート・ラッシュ先生の悟り、子供に対する「厳しさ」、「深い関心」、「良い模範」の三つならまだやれるかもしれないという気にもなる。本当はこれも、親にとって生易しいものではあるまい。どれか一つでいいというものではないのだ。

とはいえ、親の立場に立って私が言いたいことは、「子は自ら悟れ」ということである。子は親の生きざま、背中を見て自分なりに、その時々に悟ることであると言いたい。そのための演出、いや援助がキングスレイ・ウォードの、息子の年齢に応じてあるいは問題に応じて、送り続けた一通、一通の手紙であったのだ。

では悟りとは何か、また悟りを助ける手段はないのか?私流の解釈によれば悟りとは、五感による知覚以外の、直観的知覚であろう。この悟りが「禅」と深い関係があると知ったのは鈴木大拙著「禅と日本文化」との出会いである。(別項と一部重複)
「禅とは何か」について宋代の五祖法演(1104没)の説話を紹介している。「人が禅とはいかなるものかと問えば『禅とは夜盗の術を学ぶに似たり』と答えるであろう」と。

話はこうである。ある夜盗の息子が、最近弱って来た父親の後を継ごうと決心し、父親に夜盗術の伝授を頼む。父親は息子を伴い、さる富豪の館に赴き、息子に蔵の中の長持(衣服・調度品などを収納する長方形の大きな箱)に身を隠すことを指示する。息子が身を隠した途端、父親はにわかに施錠して「泥棒」と騒ぎたて、自分だけ家に逃げ帰る。取り残された息子は父親の態度にいたく立腹するが、やがて抜け出す方法を考え出す。ようやくにして家にたどり着いた息子は父親に恨みを言う。「よく抜け出せたな。どうやって抜け出したのだ?」目を輝かして問いかける父親に、先刻までの怒りも忘れて息子は、得意げに語る。「鼠のまねで音を立てて家人を呼出し、長持が開かれた途端飛び出して来た」と。父親は最後に言う。「もうお前には伝授する何物もない」と。中国流の、否、我が国にも通用する立派な教育法であろう。

30通の手紙、そのいずれもが極めて意欲的であり、積極的であり、野心的である。ヨーロッパ留学という取引を提案した手紙もある。人生の先輩として、暖かく、きめ細かく、時に厳しく導いている。それでいて何か違和感が残るのは何だろうか?勿論バター臭い解決法ということにもある。しかしよく考えてみれば30通の手紙という題名に私は惑わされていたのではないか?と。30通の手紙ではなく一通、一通の手紙、それは冒頭にも書いたように、息子が直面する個々の問題や事件への、時宜を得た助言であり、解決策であったのだ。彼は、我々読者のように一挙に20年分、30通の手紙を受け取るのではない。

私は「子は自ら悟れ」と言って来た。しかし人生を悟りきったような若者ほど哀れなものはない。「若さとは、悟り切れない苦しみを抱きつつ未知、未来に挑戦する勇気」であろう。この矛盾した命題への解はないのか?私はふと安岡正篤先生に教わった三学の教え(言志晩録、佐藤一斎)を思い出す。
 
少(わか)くして学べば壮にして為すあり。
 壮にして学べば老いて衰えず。
 老いて学べば死して朽ちず。

三学の教えは、人が生涯を通して学ぶことの重要さを教えている。しかし私にはそれと同時に、5年先、10年先にはこうありたい、こうあるべきだという人生目標を決め、掲げて生きて行くことの重要さも教えているように思う。キングスレイ・ウォード流の導き方にはバター臭さを感じるが、よく反すうしてみれば、ステップを踏んだ教えと言うことが出来る。世の親の心情に洋の東西の差はあるまい。ただ、日本にはキングスレイ・ウォードほど積極的な親は多くはいないのではないか?
私は言いたい。「子は親を教師として、時には反面教師とし学び、特に三学流に段階毎の目標を掲げて生きて欲しい」と。 平成元年10月 (1989.10)
    

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