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2013年6月22日

2013/06/22

No.90 フルベッキの業績 (致遠館は早稲田大学の源流・・・)

 平成25年6月1日のこと。「日本史探究スペシャル、ライバル達の光芒」というテレビ番組で「福沢対大隈」を見た(再放送)。この番組を私は初めて見たが教られること、考えさせられることが多々あった。そこにフルベッキの名前が出て来た。そうだ、この人の伝記なら少し読んだことがある。私は当時の読後感(原文)を探した。在った。それが本文の骨格である。
 昭和10年(1935)、郷里の小学校に入学した私の、最初の遠足先が大隈さんの生家、大隈公園だった。質素な家屋ながら雰囲気のある庭付きの居宅で、今も脳裏に残っいる。
そんなことから大隈さんが郷里の先輩であり、早稲田大学を創立した偉人であることは子供の頃から知っていた。大正12年(1922)に亡くなった大隈さんは私が生まれる6年前までこの世の人であったと考えれば一層身近な人に思われる。
 20年ほど前、大阪千里中央の図書館で「明治維新と、あるお雇い外国人、フルベッキの生涯」という本を見付けた。そこに「『早稲田大学百年史』は大隈によって設立された致遠館を早稲田大学の源流として高く評価している」とあった。
 早稲田大学の前身、東京専門学校は明治15年(1882)の創立というから、130年程前の出来事である。
 ところで「致遠館」とは一体何物か?読み進んで行くうちに、1865年、長崎五島町の諌早屋敷内に大隈さんらが設立した英語学校であることを知る。
ペリー来航から12年後のこと、大隈さん27才の時のことだ。当時、諌早屋敷はれっきとした佐賀藩の屋敷であったようで、そのためか、今日この致遠館について「長崎県大百科事典」という大著は何も触れていない。
 「致遠」とは諸橋大漢和辞典によると、易経・繋辞上では「遠きをきわめること」。同・繋辞下では「遠方に至る」と。漢書・班固伝下では「遠方の民を招き来たらしめる」という意味だそうで、「幕末の青年らしい気宇壮大な気分をこの言葉に託したもの」という。平たく言えば、「洋学を学ぶ者は来たれ、遠来の客も拒まず」というほどのものではなかったかと私は想像した。
 当時佐賀藩には1781年創立の古い歴史を持つ藩校弘道館があった。文武両道のうち、文に精を出すことを奨励していたが、藩主鍋島直正のころから、伝統的儒学と国学だけでは新時代に対応出来ないとして、早くからオランダ語と自然科学とを教授科目に加えていた。
 こうして次第にヨーロッパやアメリカの新思潮に触れたいとする洋学派が多くなってきた。しかし城下町では蘭学を中心とした伝統的保守派が多いことから洋学派は劣勢であり、また、良い先生を見つけることが難しいという事情もあった。
 こうして致遠館は大隈重信、副島種臣らによって1865年設立され、フルベッキが校長として招かれた。フルベッキは当時、長崎奉行から任命されていた「済美館」(1863年幕府設立の官立英語学校長崎洋学所、改称は1864年)と兼務することになるが、時間の大半を致遠館のために費やし、ここに日本最初の近代的大学教育の基礎を築くことになったという。
 * 学頭には副島種臣(明治政府参議、元勲)が就任。この学校から育った人たちは次の  ような人材が見られる。
 * 相良知安(弘庵)は明治政府医学校取調御用掛り、東京大学医学部前身の大学東校  にドイツ医学を採用させた。
 * 山口尚芳は、東京大学法学・文学部前身の開成学校教頭にフルベッキを招く使をつと  め、岩倉使節団副使をつとめる。
 * 小出千之助(万延元年遣米使節団通訳)、
 * 高峯譲吉(薬学者、タカジアスターゼ、アドレナリン発明者、加賀藩出身)らが育って行  った。その他大学南校時代のフルベッキ宅で直接指導を受けた高橋是清は1854年生  まれ、仙台藩士、大正時代に総理大臣となる。その高橋は18才の折り唐津藩の英語  教師を勤めたというのも驚きである。
 佐賀と長崎との関係はこの両県が肥前国と言われた中世に遡るというが、近世の歴史では、秀吉が長崎からヤソ教徒を追放した1588年、鍋島直茂に長崎警備の大任が下りる。更に15922年、秀吉は長崎を直轄領(天領)とし初代の長崎奉行に唐津藩の寺沢志摩守広高を任命する。広高は秀吉の家臣で初代唐津藩主であった。
 以来長崎奉行は1868年(明治元年)まで125代続く。その間、1641年から長崎の警備役を鍋島勝茂は松平筑前守忠之(黒田藩)と一年交代で任ぜられ、この大任も明治元年の長崎警備解除まで続く。
 さてフルベッキとはどんな人物であったか?
1830年  オランダ生まれ、ユトレヒト理工科学校で学び、
1852年 (22才)、移民としてアメリカに渡る。土木工事、機械工場で
            働いた後26才でオーバン神学校に入学。
1859年 (29才)卒業、この年長崎のアメリカ人宣教師の勧告により、
            日本行き宣教師に志願して、11月長崎に上陸。
1877年 (明治10年、47才)18年間にわたり、幕末期及び明治政府
            の助走期において活躍。雇用契約終了後は宣教師に戻り、
            また、明治学院の教授として、キリスト教教育に専念する。
      同年(明治10年)、政府はフルベッキの多年の功労に対し
             天皇の勅語と勲三等旭日章を以て報いた。
1898年 (68才)死去。棺は明治政府派遣の近衛儀仗兵に守られ、
             多くの著名人に見送られ、青山墓地に埋葬された。彼の貢献
            が如何に明治政府要人に感謝されたかを物語る逸話である。
 
  こうして、本職宣教師のフルベッキはその語学力による教育者としての能力と、政治・法律面の広い教養によって1859年の来日から1877年までの18年にわたり活躍。この間、明治4年の文部省設置時点では事実上最高顧問として学制の諮問に答え、明治政府最初のお雇い外国人教師としてその職責を果たした。
 佐賀と、こういった関係の長崎県に1983年オランダ村が出来、さらに1992年、2200億円をかけたハウステンボスも完成。テレビや新聞がニュースやCMを流している。しかし私はこういったものを見ると妙に腹立たしくなる。
理由は致遠館というような、かって長崎に持っていた文化遺産を今日佐賀県は正当に相続出来ていないと思うからである。ハウステンボスが如何に美しかろうとそれはエキゾチシズムを売りものにした観光資源に過ぎないと。
 それに比べると佐賀県が堀り起こした「吉野ヶ里遺跡とその出土品」は1800年前の弥生人が残してくれた本物の文化財である。わが国の黎明期を彩る文化遺産で、佐賀県はその正当な遺産相続人と言えよう。
 ふるさとがそういう恵まれた遺産相続人の栄誉を担っているにも拘らず、私はなお「致遠館」を目に見える存在に出来ないかという欲望にかられる。近代日本の政治・教育の基礎を作った人材を育てた場は致遠館に限らず、蘭学寮、医学寮もある。人名辞典(平凡社)は、鍋島閑叟(1814ー1871)の項に言う。「人材雲のごとくいず」と。当時の佐賀藩の活気が目に見えるようだ。それらの人物像を何かの方法で今我々の目に見える形に出来ないものか?と。
いや、私の不勉強だった。私と同じ志の人がいて、既に佐賀県立の中高一貫校「致遠館」が出現しているではないか!私が最近「致遠館」という言葉をWeb上で探した時のことだ。
校訓は「cultivate(自己啓発)、create(創造)、challenge(チャレンジ)」という。校名は鍋島直正が設置した佐賀藩藩校の名に由来して通称致遠館。1988年(昭和63年)に開校した比較的新しい高等学校である。佐賀県教育委員会のモデル校であり、2003年に佐賀県立致遠館中学校を併設し、併設型中高一貫教育を行うようになった」という。
私の思いは杞憂に終わったとも言えよう。しかし私は複雑な思いである。私立校であれば特に問題は無いのだが、県立校という点に引っかかる。佐賀西高等学校に次ぐ進学校として、偏差値を狙って設立したという。県がそういう進学校を作っていいものかどうか?
 1865年の致遠館創立からほぼ150年という今日、既に三代、四代と世代は交代している。歴史書なしに口伝的にこういった分野の歴史を継承して行くことは難しい。私は芝原拓自先生、杉谷 昭先生の本から、ずっしりとした時間の重みを受け取ったところである。
          引  用、  参  考  資  料
  歴史学研究会編:日本史年表、岩波書店、1966年8月30日、2刷
  中村政則編:年表昭和史、岩波書店、1989年3月20日、1刷
  芝原拓自:世界史のなかの明治維新、岩波新書3、1978年12月10日、13刷
  杉谷 昭:鍋島閑叟、中公新書1067、1992年3月25日発行
                       原文平成4年4月 改定:平成25年6月22日

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