カテゴリー「随想」の記事

2013/06/22

No.90 フルベッキの業績 (致遠館は早稲田大学の源流・・・)

 平成25年6月1日のこと。「日本史探究スペシャル、ライバル達の光芒」というテレビ番組で「福沢対大隈」を見た(再放送)。この番組を私は初めて見たが教られること、考えさせられることが多々あった。そこにフルベッキの名前が出て来た。そうだ、この人の伝記なら少し読んだことがある。私は当時の読後感(原文)を探した。在った。それが本文の骨格である。
 昭和10年(1935)、郷里の小学校に入学した私の、最初の遠足先が大隈さんの生家、大隈公園だった。質素な家屋ながら雰囲気のある庭付きの居宅で、今も脳裏に残っいる。
そんなことから大隈さんが郷里の先輩であり、早稲田大学を創立した偉人であることは子供の頃から知っていた。大正12年(1922)に亡くなった大隈さんは私が生まれる6年前までこの世の人であったと考えれば一層身近な人に思われる。
 20年ほど前、大阪千里中央の図書館で「明治維新と、あるお雇い外国人、フルベッキの生涯」という本を見付けた。そこに「『早稲田大学百年史』は大隈によって設立された致遠館を早稲田大学の源流として高く評価している」とあった。
 早稲田大学の前身、東京専門学校は明治15年(1882)の創立というから、130年程前の出来事である。
 ところで「致遠館」とは一体何物か?読み進んで行くうちに、1865年、長崎五島町の諌早屋敷内に大隈さんらが設立した英語学校であることを知る。
ペリー来航から12年後のこと、大隈さん27才の時のことだ。当時、諌早屋敷はれっきとした佐賀藩の屋敷であったようで、そのためか、今日この致遠館について「長崎県大百科事典」という大著は何も触れていない。
 「致遠」とは諸橋大漢和辞典によると、易経・繋辞上では「遠きをきわめること」。同・繋辞下では「遠方に至る」と。漢書・班固伝下では「遠方の民を招き来たらしめる」という意味だそうで、「幕末の青年らしい気宇壮大な気分をこの言葉に託したもの」という。平たく言えば、「洋学を学ぶ者は来たれ、遠来の客も拒まず」というほどのものではなかったかと私は想像した。
 当時佐賀藩には1781年創立の古い歴史を持つ藩校弘道館があった。文武両道のうち、文に精を出すことを奨励していたが、藩主鍋島直正のころから、伝統的儒学と国学だけでは新時代に対応出来ないとして、早くからオランダ語と自然科学とを教授科目に加えていた。
 こうして次第にヨーロッパやアメリカの新思潮に触れたいとする洋学派が多くなってきた。しかし城下町では蘭学を中心とした伝統的保守派が多いことから洋学派は劣勢であり、また、良い先生を見つけることが難しいという事情もあった。
 こうして致遠館は大隈重信、副島種臣らによって1865年設立され、フルベッキが校長として招かれた。フルベッキは当時、長崎奉行から任命されていた「済美館」(1863年幕府設立の官立英語学校長崎洋学所、改称は1864年)と兼務することになるが、時間の大半を致遠館のために費やし、ここに日本最初の近代的大学教育の基礎を築くことになったという。
 * 学頭には副島種臣(明治政府参議、元勲)が就任。この学校から育った人たちは次の  ような人材が見られる。
 * 相良知安(弘庵)は明治政府医学校取調御用掛り、東京大学医学部前身の大学東校  にドイツ医学を採用させた。
 * 山口尚芳は、東京大学法学・文学部前身の開成学校教頭にフルベッキを招く使をつと  め、岩倉使節団副使をつとめる。
 * 小出千之助(万延元年遣米使節団通訳)、
 * 高峯譲吉(薬学者、タカジアスターゼ、アドレナリン発明者、加賀藩出身)らが育って行  った。その他大学南校時代のフルベッキ宅で直接指導を受けた高橋是清は1854年生  まれ、仙台藩士、大正時代に総理大臣となる。その高橋は18才の折り唐津藩の英語  教師を勤めたというのも驚きである。
 佐賀と長崎との関係はこの両県が肥前国と言われた中世に遡るというが、近世の歴史では、秀吉が長崎からヤソ教徒を追放した1588年、鍋島直茂に長崎警備の大任が下りる。更に15922年、秀吉は長崎を直轄領(天領)とし初代の長崎奉行に唐津藩の寺沢志摩守広高を任命する。広高は秀吉の家臣で初代唐津藩主であった。
 以来長崎奉行は1868年(明治元年)まで125代続く。その間、1641年から長崎の警備役を鍋島勝茂は松平筑前守忠之(黒田藩)と一年交代で任ぜられ、この大任も明治元年の長崎警備解除まで続く。
 さてフルベッキとはどんな人物であったか?
1830年  オランダ生まれ、ユトレヒト理工科学校で学び、
1852年 (22才)、移民としてアメリカに渡る。土木工事、機械工場で
            働いた後26才でオーバン神学校に入学。
1859年 (29才)卒業、この年長崎のアメリカ人宣教師の勧告により、
            日本行き宣教師に志願して、11月長崎に上陸。
1877年 (明治10年、47才)18年間にわたり、幕末期及び明治政府
            の助走期において活躍。雇用契約終了後は宣教師に戻り、
            また、明治学院の教授として、キリスト教教育に専念する。
      同年(明治10年)、政府はフルベッキの多年の功労に対し
             天皇の勅語と勲三等旭日章を以て報いた。
1898年 (68才)死去。棺は明治政府派遣の近衛儀仗兵に守られ、
             多くの著名人に見送られ、青山墓地に埋葬された。彼の貢献
            が如何に明治政府要人に感謝されたかを物語る逸話である。
 
  こうして、本職宣教師のフルベッキはその語学力による教育者としての能力と、政治・法律面の広い教養によって1859年の来日から1877年までの18年にわたり活躍。この間、明治4年の文部省設置時点では事実上最高顧問として学制の諮問に答え、明治政府最初のお雇い外国人教師としてその職責を果たした。
 佐賀と、こういった関係の長崎県に1983年オランダ村が出来、さらに1992年、2200億円をかけたハウステンボスも完成。テレビや新聞がニュースやCMを流している。しかし私はこういったものを見ると妙に腹立たしくなる。
理由は致遠館というような、かって長崎に持っていた文化遺産を今日佐賀県は正当に相続出来ていないと思うからである。ハウステンボスが如何に美しかろうとそれはエキゾチシズムを売りものにした観光資源に過ぎないと。
 それに比べると佐賀県が堀り起こした「吉野ヶ里遺跡とその出土品」は1800年前の弥生人が残してくれた本物の文化財である。わが国の黎明期を彩る文化遺産で、佐賀県はその正当な遺産相続人と言えよう。
 ふるさとがそういう恵まれた遺産相続人の栄誉を担っているにも拘らず、私はなお「致遠館」を目に見える存在に出来ないかという欲望にかられる。近代日本の政治・教育の基礎を作った人材を育てた場は致遠館に限らず、蘭学寮、医学寮もある。人名辞典(平凡社)は、鍋島閑叟(1814ー1871)の項に言う。「人材雲のごとくいず」と。当時の佐賀藩の活気が目に見えるようだ。それらの人物像を何かの方法で今我々の目に見える形に出来ないものか?と。
いや、私の不勉強だった。私と同じ志の人がいて、既に佐賀県立の中高一貫校「致遠館」が出現しているではないか!私が最近「致遠館」という言葉をWeb上で探した時のことだ。
校訓は「cultivate(自己啓発)、create(創造)、challenge(チャレンジ)」という。校名は鍋島直正が設置した佐賀藩藩校の名に由来して通称致遠館。1988年(昭和63年)に開校した比較的新しい高等学校である。佐賀県教育委員会のモデル校であり、2003年に佐賀県立致遠館中学校を併設し、併設型中高一貫教育を行うようになった」という。
私の思いは杞憂に終わったとも言えよう。しかし私は複雑な思いである。私立校であれば特に問題は無いのだが、県立校という点に引っかかる。佐賀西高等学校に次ぐ進学校として、偏差値を狙って設立したという。県がそういう進学校を作っていいものかどうか?
 1865年の致遠館創立からほぼ150年という今日、既に三代、四代と世代は交代している。歴史書なしに口伝的にこういった分野の歴史を継承して行くことは難しい。私は芝原拓自先生、杉谷 昭先生の本から、ずっしりとした時間の重みを受け取ったところである。
          引  用、  参  考  資  料
  歴史学研究会編:日本史年表、岩波書店、1966年8月30日、2刷
  中村政則編:年表昭和史、岩波書店、1989年3月20日、1刷
  芝原拓自:世界史のなかの明治維新、岩波新書3、1978年12月10日、13刷
  杉谷 昭:鍋島閑叟、中公新書1067、1992年3月25日発行
                       原文平成4年4月 改定:平成25年6月22日

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2012/09/28

No.89 安岡正篤先生の思い出…胆識について

あえて安岡先生と呼ばせて頂くが先生の業績、人脈に関する情報はインターネットの世界に満載されており、私が解説する必要はないが、大方の人が知っていると思われることは元号「平成」の名付け親ということ。年配の方は終戦時、昭和天皇自身によるラジオ放送の終戦の詔書発表(玉音放送)に加筆し原稿を完成させたことから皇室からも厚い信頼を受けた人ということではなかろうか。

大阪府出身の陽明学者・思想家・教育者。多くの政治家や財界人の精神的指導者や御意見番として知られる人物であり、安岡先生を師と仰いだ政治家には「吉田茂」「池田勇人」「佐藤栄作」「福田赳夫」「大平正芳」など歴代の首相も名を連ねているという。

あえて私がここに取り上げた理由は先日私のブログ「硬骨ウント恍惚」(No.87)の中で一寸触れたが、私の父は我々子供にとって思い出になる「歌集(短歌)」を残してくれた。私はその歌集を以前入念に読んだところ、そこに二つの発見があった。
  ①:第二芸術への言及
  ②:安岡先生への私淑、思慕の歌

「一時、第二芸術論(ブログNo.10記載)が台頭した。尤も之は最初主として俳句に対する議論であったが短歌も一時之に巻き込まれようとした。しかし今日ではもはや問題外である。日本語の持つ美の極致は叙情にせよ、叙景にせよ、短歌の中にのみ発見することが出来るということに結論されて来た。また国文学者の間に於いても、従来の考証学という様な固い殻を脱却して現代に立脚した研究に移行して来たことも注目すべき現象であろう」と。

第二は、父がかねて私淑して来た安岡正篤先生とある日、感激の対面を果たしたこと。恐らく先生の九州講演旅行の際の、出会いのひとこまであろう。その感激が短歌雑誌「ひのくに」に残っている。題もそのまま「安岡先生」である。
  日頃わが慕える人はまのあたり 颯爽として壇に立たしし
  感激に人は生きよと獅子吼する 君はまことに世の力なる

  
明治31年生まれの先生、明治29年生まれの父。年齢を超え、ところを超え父が人生の師として尊敬した先生、恐らく昭和10年頃の作品と思われるが、その思いが直に私に伝わって来る。約40年後、奇しくも私もまた、先生に私淑することになる。父はあの世から「お前も一首読んでみよ」と言うかも知れないが、不肖の子にそんな芸はない。

安岡先生には政界だけでなく、財界にも多くの心酔者があり、三菱グループ・近鉄グループ・住友グループ・東京電力など、多くの財界人をも指南しておられたという。こうして関西企業の従業員であった私も「関西師友会」、「師と友」と言った小冊子を通し、また直接先生の講話を聞く機会を持つことになる。

ある日先生はいう。「人間の判断には知識も見識も要る。しかし胆識無しに大事は成せない」と。胆識とは実行力を伴う見識のようである。 (平成24年9月28日 2012.09.28)

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2012/09/27

No.88 ビジネスマンの父より息子への30通の手紙を読んで…伝えることの難しさ

キングスレイ・ウォード著「ビジネスマンの父より息子への30通の手紙」(城山三郎訳)を読んで私は複雑な気持ちになった。「とてもこんな立派な親父にはなれない」、「これは帝王学であり、誰彼に当てはまるというものではあるまい」。「人生のあり方、生き方をこのような形で伝えて果たして効果があるであろうか?」とも感じた。それでいて無視出来ないのである。

著者はカナダの化学会社社長。この本は、息子が有名私立大学に入学した17才から、息子に社長の椅子を譲るまでの20年間にわたり、手紙形式で書き送った処世訓30通である。
私はこの本を読みながら、親の生きざまや考え方を伝えることの難しさを痛感した。しかし要は悟らせることではないか?そうであれば日本には日本流のやり方もあるのではなかろうかと。

文明が「環境破壊」という伏兵の出現で足踏みさせられたとは言え、科学と技術に支えられた「文明は本質的には前進的、累進的であり、愚かな繰り返しはない」。それに比べると人間に関わる諸々のもの、思想、宗教、芸術、政治、経済、サービス、人生そのもの、総括的に文化一般は、周期的である。それでも総体としては緩やかな螺旋階段を漸進的に上っているといえるかもしれない。そういった文化を親から素直に学ばなかった私には反省もある。

今や私も親の立場となり、人生の生き様を如何に伝えて行くかを考えねばならないが、この文化の伝承の難しさこそが、この本が多くの読者に感銘を与え、ベストセラーともなった理由であろう。読者は親であり、親のための教科書である。この本の中に、17世紀の英国の詩人ジョージ・ハーバードの言葉として著者が紹介した一語、「一人の父親は百人の教師に勝る」がある。この言葉を、広島学院高等学校、ロバート・ラッシュ校長もまた中国新聞に寄せている。まさしく真理であろう。
キングスレイ・ウォード流の完璧なまでの教育は到底真似出来ないとしても、日本滞在33年のロバート・ラッシュ先生の悟り、子供に対する「厳しさ」、「深い関心」、「良い模範」の三つならまだやれるかもしれないという気にもなる。本当はこれも、親にとって生易しいものではあるまい。どれか一つでいいというものではないのだ。

とはいえ、親の立場に立って私が言いたいことは、「子は自ら悟れ」ということである。子は親の生きざま、背中を見て自分なりに、その時々に悟ることであると言いたい。そのための演出、いや援助がキングスレイ・ウォードの、息子の年齢に応じてあるいは問題に応じて、送り続けた一通、一通の手紙であったのだ。

では悟りとは何か、また悟りを助ける手段はないのか?私流の解釈によれば悟りとは、五感による知覚以外の、直観的知覚であろう。この悟りが「禅」と深い関係があると知ったのは鈴木大拙著「禅と日本文化」との出会いである。(別項と一部重複)
「禅とは何か」について宋代の五祖法演(1104没)の説話を紹介している。「人が禅とはいかなるものかと問えば『禅とは夜盗の術を学ぶに似たり』と答えるであろう」と。

話はこうである。ある夜盗の息子が、最近弱って来た父親の後を継ごうと決心し、父親に夜盗術の伝授を頼む。父親は息子を伴い、さる富豪の館に赴き、息子に蔵の中の長持(衣服・調度品などを収納する長方形の大きな箱)に身を隠すことを指示する。息子が身を隠した途端、父親はにわかに施錠して「泥棒」と騒ぎたて、自分だけ家に逃げ帰る。取り残された息子は父親の態度にいたく立腹するが、やがて抜け出す方法を考え出す。ようやくにして家にたどり着いた息子は父親に恨みを言う。「よく抜け出せたな。どうやって抜け出したのだ?」目を輝かして問いかける父親に、先刻までの怒りも忘れて息子は、得意げに語る。「鼠のまねで音を立てて家人を呼出し、長持が開かれた途端飛び出して来た」と。父親は最後に言う。「もうお前には伝授する何物もない」と。中国流の、否、我が国にも通用する立派な教育法であろう。

30通の手紙、そのいずれもが極めて意欲的であり、積極的であり、野心的である。ヨーロッパ留学という取引を提案した手紙もある。人生の先輩として、暖かく、きめ細かく、時に厳しく導いている。それでいて何か違和感が残るのは何だろうか?勿論バター臭い解決法ということにもある。しかしよく考えてみれば30通の手紙という題名に私は惑わされていたのではないか?と。30通の手紙ではなく一通、一通の手紙、それは冒頭にも書いたように、息子が直面する個々の問題や事件への、時宜を得た助言であり、解決策であったのだ。彼は、我々読者のように一挙に20年分、30通の手紙を受け取るのではない。

私は「子は自ら悟れ」と言って来た。しかし人生を悟りきったような若者ほど哀れなものはない。「若さとは、悟り切れない苦しみを抱きつつ未知、未来に挑戦する勇気」であろう。この矛盾した命題への解はないのか?私はふと安岡正篤先生に教わった三学の教え(言志晩録、佐藤一斎)を思い出す。
 
少(わか)くして学べば壮にして為すあり。
 壮にして学べば老いて衰えず。
 老いて学べば死して朽ちず。

三学の教えは、人が生涯を通して学ぶことの重要さを教えている。しかし私にはそれと同時に、5年先、10年先にはこうありたい、こうあるべきだという人生目標を決め、掲げて生きて行くことの重要さも教えているように思う。キングスレイ・ウォード流の導き方にはバター臭さを感じるが、よく反すうしてみれば、ステップを踏んだ教えと言うことが出来る。世の親の心情に洋の東西の差はあるまい。ただ、日本にはキングスレイ・ウォードほど積極的な親は多くはいないのではないか?
私は言いたい。「子は親を教師として、時には反面教師とし学び、特に三学流に段階毎の目標を掲げて生きて欲しい」と。 平成元年10月 (1989.10)
    

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2012/09/23

No.87 ブログ「硬骨ウント恍惚」を私は何故書き始めたか

「定年後の人生設計講座」の席で。「あなた達はもしかすればこれから20年、30年という長い老後を過ごすことになるかも知れない。何か打ち込む対象を持つことなしに生きられる時間ではありません」と講師の言葉は脅迫的であった。世の中、生涯現役という人もいようが大方のサラリーマンは、そうは行かない。この言葉は、趣味らしい趣味もなく仕事人間として生きてきた私を慌てさせる言葉だった。そこから今日の誕生日まで、24年が過ぎた。感無量である。

何か自分に合った趣味を探さねばなるまい。考えついたのが「書くこと」だった。とは言え、お金になる「物書き」ではない。子供の頃、「赤い鳥」*1を読み始めた頃から文章を書くことだけは好きで、苦にはならないが短歌や俳句を嗜むでもなく、小説らしいものを書いた経験もない。

熟考の末私は、二人の息子宛に近況報告を兼ねた、「一人新聞」の発行に決めた。記者・編集者・発行人を兼ねた仕事だ。当時はワープロ仕上げ、郵送である。共にサラリーマンの息子たちであれば、男同士で解ってくれる話題もある。忙しさにかまけて面倒を見てやれなかった息子たちだからこそ、いま格好の送り先だと一方的に思い込んで平成元年十月から毎月発行して来た随想、題して「坐院○○発」。○○は私の所在地、生ある限りの存在(ザイン)証明である。結局100号までの8年4ヶ月、話題として241編の随想を送った。

息子宛に随想を書いた理由には次の様な理由もあった。
一つには、私の父が子供にとって思い出になる「歌集(短歌)」を残してくれたことである。我が息子たちもいつか私を懐かしく思う日が来るに相違ない。そんな日のよすがになればとの思いである。
第二の理由は、人生の生き様、生きるノウハウという「文化」を私流に伝えたいという願望からである。親の文化から学ぶことを好まず自己流で1から出発する愚かさの苦い体験を持つ私。
例の「ビジネスマンの父より息子への三十通の手紙」*2を読んだとき、私が語るよりこの本を息子達に贈ろうかと一瞬錯覚した。しかし、この本は私が息子たちに贈る本ではなかった。著者は、賢く生きた親の代表であった。この本の著者ほどに賢く生きれなかったとしても、反面教師もまた、立派な教師である。それぞれの親に、人生を生きるノウハウがある筈である。それを伝えよう。要は、子は一人で悟る以外に方法のない人生である。何かをヒントとして人よりも早く悟り、人よりも賢く生きて欲しい。そういう思いの随想である。

 ここに書き並べた「硬骨ウント恍惚」は当時ワープロ仕上げであった文章を逐次ブログに書き改め、或いは新しく作成したブログである。比較的「硬骨漢」として自認している私だが、最近は「恍惚の人」ともなって来た。
話題は結局、文化、文明の諸問題に終始した随想である。それらは私にとっては発見そして開眼の旅の記録であり、旅は今後も続けたい。学者でも研究者でもない私の見方は独断、偏見、誤解或いは曲解に満ちた主観であり直感である。公表には責任がを伴うように思うが願わくば寛大に見て欲しい。                2012.09.23 

*1鈴木三重吉創刊、児童文芸誌『赤い鳥』

*2 ビジネスマンの父より息子への三十通の手紙 キングスレイ・ウォード/著 城山三郎訳
父親が自分と同じ道を志そうとしている息子へ、男の言葉で語るビジネスの世界のルールと人間の機微。ここではビジネスマンがその生涯で遭遇すべきあらゆる局面が取り上げられ、その対応の姿勢が経験をもとに熟考されたウイットのある表現で語られている。若いビジネスマンのみならず、ミドルもトップも必読の、人生論のあるユニークなビジネス書としてミリオンセラーとなった本。

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2012/09/17

No.86 「鈴木秀夫氏と森本哲郎氏の文明論を読んで」 文系著作物の優先性(権)は何を以て立証するか?

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A紙夕刊「惜別」欄で、地理学者東京大学名誉教授、鈴木秀夫氏 の業績と人柄を読んだ。(平成23年2月11日死去、惜別は平成23年4月30日土曜日、3版6頁記載)先生は東京大学理学部地学科地理学専攻である。
私は先生の業績概要を読んだとき、評論家森本哲郎氏の業績と余りにも類似していることに驚くと共にこのようなことが存在することにも驚く。

理工系の学術論文であれば関連学会での研究発表日がその優先性を立証する。最近では関連学会などの電子版への登録日時がその優先性を立証するもののようでもある。東北大学の西澤工学部長、のち総長によれば、(以前は)優先性が問題になったとき「研究ノート(大学ノート)」のメモなど、時系列に記録、作成されたものが優先性を主張したという。しかし昨今では大学ノートなどの出番はなく、記録は全てパソコン内にある。その種のデータでは優先性を立証することは困難であろう。

「惜別」欄の担当記者は、森本哲郎氏の業績を知らなかったのではと一瞬疑ったが森本哲郎氏はもともとA紙にも在職の先輩であり、そのような理由ではあるまい。
文系著作物の、優先性(権)の評価が困難な理由は恐らく次の様な理由によるものではなかろうか。
①文系著作物では理工系程、正確・厳密に相違点を明確化できないのではなかろうか。
②鈴木先生は地理学専攻、森本哲郎氏は哲学専攻の評論家であれば、発表の場が相違したのではなかろうか
③文系では業績発表の場が、学会などではなく出版という形式が多いのではなかろうか。その場合、理工系ほど日時に神経質ではなく、また、相互に著作物・出版情報が把握出来ていないのではなかろうか。

私は森本哲郎氏の著書「そして文明は歩む」を新潮文庫本(平成2年10月25日発行)で読んだ。原著書は昭和55年(1980)11月、新潮社から刊行されたとなっている。恐らくここらあたりに、この論文の誕生日があると考えられる。

私は、森本哲郎氏の「そして文明は歩む」から私の歴史観の根底ともなる知識を学んだ。そこには
「一神教は砂漠に生まれた。ユダヤ教も、キリスト教も、イスラム教も、みな砂漠が故郷なのである。一神教と砂漠とは、切り離せぬ絆で結ばれているといってもいい。なぜなのであろうか。長いあいだ私にはそれが不思議でならなかった。しかし、幾度か砂漠に身を置いてみて、私はそれが何となくわかるような気がしてきた。一神教を風土に結びつけて説明することには異論もあるようだが、何度かの砂漠体験によって、いよいよその確信を深めたのである…。

他方鈴木先生の業績については「惜別」によれば、広く読まれた「森林の思考・砂漠の思考」で(先生)は宗教も論じた。「森林の中では、道に迷っても、いつの間にか元に戻る。唯一の正解はなく、多神教が生まれたと考えた。道に迷えば死が待つ「砂漠」で、二者択一で直線的な世界観の一神教ができたとした。(A紙の惜別欄記者によれば1978年の仕事という)

私はいつの頃からか一神教について次の様に理解する様になっていった。「砂漠は大海原に等しい。一人の優秀な航海案内人無しには渡れない。死が待っている。.こうして砂漠地区では一神教(優秀な航海案内人)が誕生した」と。)

森本哲郎氏の著書(「そして文明は歩む」の奥付解説で、木村尚三郎先生は「森本哲郎さんは歩く哲学者である。異国の地を歩きながら考え、考えながら歩き、自ら壮大な文明論を築き上げることの出来る、生きた哲学者である。…」と書いている。

文系著作物の優先性(権)或いは「オリジナリティー」はどのようにして立証されているのか?そのことについて、理工系人間の私が拘るほど、厳密に問題とする必要はないのであろうか?      2012.09.17

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2012/08/24

No.85:パウル・ベッカー(*)のこと(大阪 大英博物館展を見て)

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今年(2012)5月、吉田秀和さんが死去された。日本で初めて本格的なクラシック音楽批評の方法を確立した音楽評論家で、文化勲章受章者という。
誰かの追悼文の中に「パウル・ベッカー」という言葉が見られた。パウル・ベッカー著「西洋音楽史」(1924ー1925講演集)河上徹太郞訳は私の書架にあり、懐かしかった。私の読後感を披露すれば、まさに開眼であった。彼の評論は決して壮大な歴史感を踏まえた誇大な表現ではない。しかし「古代人と現代人の芸術的感性に大差はない」という一語に私は度肝を抜かれる思いであった。

具体的に年代を示してはいないが、少なくともギリシャ時代(四千年前位)まで遡って彼は言う。
「我々が、目の届く限り続いているポプラの長い並木の一端に立ったとき、一番、目近に立っている樹が最も大きく成長しており、遠方の樹程小さくなって、地平線のかなたにあるものはついには我々の目には一つの点に過ぎなくなる。
しかし実際その樹は小さいだろうか?そんなことはない。並木に沿って歩いて行ってみれば、あらゆる樹はそれぞれ違った個性を持って成長し、ある樹はたくましい幹を、ある樹は張り切った枝振りを持っていることが分かる。
本質的には皆同じ樹でる。点に見えたものは最初目近に大きく見えた樹よりも、もっと大きく、かつ逞しいかも知れない。
要するに錯覚の原因は樹そのものにあるのではなく、遠景を眺める場合の、我々の遠近法的な視覚の性質による。我々がこれから歩み入ろうとしている音楽史は、ちょうどこの視界の外まで広がっている並木道のようなものである」と。

平成3年4月下旬のこと。当時千里の万博記念公園内にあった国立国際美術館で大英博物館展を見た。(2004年大阪市北区中之島に移転)3月上旬から始まったこの催しの幕切れが近付いたため、ゴールデンウイークを避けて見に行った。平日にも拘らず会場はかなりの混みかたであった。
千里中央でバスを乗り継いで会場に着く。視界は見渡す限りの新緑に輝き、所々、平戸つつじのピンクと白が、程よい彩りを添えて私の目を楽しませてくれた。

館の中央入り口から、案内の矢印に沿って左手に進み、4階の会場まで一直線に続くエースカレーターに乗る。この会場は先ず最上階の作品を鑑賞し順次下降してくるシステムである。会場には一見してこの催しを見るため遠隔地から訪れたという身なりの中年の人や、修学旅行途中の中学生らしい一団も交えて、なかなかの賑わいであった。前年10月の東京世田谷美術館を振出に、山口県立美術館を経て、最後の開催地ここ大阪にやって来たという。5月3日の新聞は東京、山口の観客合計が62万人、大阪は昨日現在39万人を越え、総計100万人を突破したと報じていた。

人波に体を預けながら、ゆるゆると進む。少し落ちついてからあたりを見渡して、まずその暗さに気付く。展示品の変色や退色への配慮からという掲示があるが、流れの悪さの原因が説明用パネルの文字の小ささにあることも判ってくる。ふと隣人を見ると分厚い解説書と見比べながらの鑑賞である。そうだ。説明パネルの内容が解説書にあるなら、後でゆっくり読むとしよう。私は売店に走りパラパラと解説書をめくる。印刷も、色彩も悪くない。以前にどこかで買った解説書は色彩が悪く実物の印象をすっかり壊された。この本には解説パネルの説明もちゃんとある。私は早速買い求め、以後は展示の現物を中心にそれこそ心眼を見開いて網膜に焼き込んだ。

何千年もの昔、一体作者はどんな思いを込めてこれを作ったであろうか、本当の用途は何であったろうかなどと思いを巡らしながら、2時間かけて、焦らずにじっくり鑑賞した。
展示品は7分野、251点という構成、即ちメソポタミア、エジプト、ギリシャ、インド、西域、メソアメリカ(マヤ・アステカ)それにポリネシア(ハワイ)の出土品であった。さすがに大英博物館の所有する歴史的大遺産だけあって、見応えのある素晴らしいものばかりであった。

私は以前、百貨店などで開催される美術展を「借り物文化いや客寄せパンダでは?」として、疑問を提起した。しかしこの展示品はたとえ借り物であっても、十分に意義あるものと素直に感じた。帰路、私は久しぶりに味わった感動と満足感の余韻に浸りながら、半年程前に開通したモノレールに乗車して、千里中央駅に出た。約5分、モノレールはこの美術館と私の家とを更に近付けたようである。

この種の展示品を見た時よく感じたことは、7千年も8千年も前によくもこのように繊細な感覚の芸術品が生まれたものだという感動と驚きである。例えばイラクで紀元前6千年頃に作られたとされる幾何学模様のデザインを持つ彩陶壷もその一つであった。

しかし私は前記のパウル・ベッカー著の「西洋音楽史」を読んで、そのように考えることは錯覚だと教えられた。パウル・ベッカーは古代人と現代人の芸術的感性に大差はないというのである。

要するに、人類史の長さから見れば、何千年という時間はほんの昨日のことであり、その人間と今日の人間との間に芸術的感性に差があろう筈はないというのであろう。
実はこれも後日知ったことだが、トインビーも「人類史の全体は同時代史であり、人類が歩んだ数千年間というようなものは、悠久の歴史から見たら、同時代的現象に過ぎない」といっている。
更に、カール・セーガン博士の「COSMOS」は宇宙の始まりを1月1日とすれば、最初の人間登場は12月31日の午後10時半という。約1時間半の中に人類史の7千年ほどが詰まっているということであろう。

私は何時の頃からかこのような見方で文化遺産を見て来た。では、これら文化遺産に接した時の私の感動は何であろうか?恐らくは何千年という時間に耐えて出土した遺物の生命力に対する畏敬の念であり、また、発掘され、陽の目を見ることを希求していたであろう遺物と我々との出会いの喜びということである。

しかし私はこの大英博物館展を見ながらふと疑問が湧いた。七つの海を制した英国とはいえ、こうした文明先進国の貴重な出土品や遺物を英国が独占していいものかどうか?また、我々はそれらの文化的遺産をその出土地でなく今、日本で見ていることにどんな意味があるのだろうか?と。
実は、大方の人が抱くであろうこの疑問に応えるために、解説書は「大英博物館の沿革」を用意していた。
「コレクション総数700万点を越え、人類の生きたあらゆる地域と時代の文明とを網羅し、年間400万人以上の入場者を誇る大英博物館の始まりは、医師でのち王立医科大学長ともなったサー・ハンス・スローン(1660-1753)の遺志によると。
彼は集めたコレクションが散逸することを恐れ、遺言でこれを託し、1753年、国王の承認を得て理事会を設置、コレクションの購入代金及び陳列所の建設費を公営宝くじに求めることが可決された」という。

スローンを初めとした先見性のあった考古学ファン或いは学者の情熱と、
財政的支援をしてくれた国王、政府、貴族等、
さらには発掘を許可してくれたエジプト政府を初めとする文化財、遺跡等の所有国の理解と協力
によって、初めて文化財が発掘、収集、維持、管理され、それを原点としてさらに多くの研究者が生まれ、こうして過去の文明が研究、解明され、今日に至ったという。

勿論、そこに至るまでには、英国側にも多くの問題点があったであろうことは容易に想像される。他国の文化財を発掘して持ち帰ることの是非、たとえ正規の取引とはいえ、ミイラや棺を売買すること、英国側におけるナショナリズムとも言うべき圧力、自国の出土品でないいわゆる借り物文化への僻み、近東諸国側の遺物国外持ち出し禁止処置の発生、増え続ける遺物の保管場所、経費の問題等である。

しかしもし、情熱を以て発掘を続ける探検家がいなかったなら、またもし発掘を資金的に援助する貴族、政府等のスポンサーがいなかったなら、折角の遺跡も地下に眠ったままであったろう。
こうして見て来れば、これらの遺産は単に英国の所有物というに留まらず、全人類の文化財として位置づけられるものであり、英国を代表するその努力に人類の一員として感謝すべきものと私は感じた。

では文化財はそのあるがままに鑑賞されるべきではないか?という疑問にはどう答えるか。確かに、それらの遺品は出土国の自然環境の中で保存され鑑賞されることこそ、それを理解するに最もふさわしいことは間違いない。その荒涼とした厳寒の自然が、砂漠の炎暑が、或いは四周の美しい山野が、作品の制作意欲や感性の誕生を理解させることに役立つ筈である。
                     
しかし、イラク・イラン戦争が五つの多層都市遺跡を破壊し、過日の湾岸戦争がシュメール文明の所産を破壊したことも報じられている。どんなに立派な遺跡や文化財を所有していても、当事国に調査・維持・管理能力が欠如していたら、人類は何等の恩恵に浴さず不幸である。産出・所有国の自然環境の中で…という希望は言うべくして難しい問題である。結局私は現状がベストではないかと納得したところであった。
原文:平成3年(1991)5月  、平成24年(2012)0825

(*)マックス・パウル・オイゲン・ベッカー(Max Paul Eugen Bekker, *1882年9月2日   ベルリン – 1937年3月13日 ニューヨーク)は、1920年代半ばまで活躍したドイツ  の音楽評論家。言論活動に加えて、指揮者や劇場支配人としても活動した。

 

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2009/11/06

No.84 : 文化の日によせて

11月3日は文化の日であった。
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』によれば
「文化の日(ぶんかのひ)は、日本の国民の祝日の一つで、日付は11月3日である。国民の祝日に関する法律(以下「祝日法」)では『自由と平和を愛し、文化をすすめる』ことを趣旨としている」というが、「すすめる」とは曖昧な表現で感心しない。
この日皇居では文化勲章の授与式が行われる。また、この日を中心に、文化庁主催による芸術祭が開催される。…
この日は晴天になる確率が高く、「晴れの特異日」として有名である。…とあった。
旗日であるが、近くのターミナル駅まで出かけたが、いつも見かける交番にも日章旗を見ることは出来なかった。

ところで、「文化」とは私にとって難しい言葉である。疑問に思うことが多く、このブログのNo.29(2005.11.03)に「文化の日に思う」と題して私の理解を纏めて掲載した。先日読み返したがいまも、それ以上の理解は出来ていない。やむを得ず、そのまま再度ここに引用することにした。

毎年「文化の日」を迎えて思う事がある。香り高い菊の季節の行事であるだけに、「文化」といえば文学、音楽、絵画、宗教その他の、人間の精神活動で生み出された作品が思い浮かぶ。しかし文化勲章授賞者には自然科学分野で業績を挙げた人達もおられ、文化という言葉の幅の広さを感じる。

たまたま、「言葉と文化」(鈴木孝夫著)という本を読んでいたら、私のような狭い解釈の誤解に触れ、「…しかし私がこの本で『文化』と称するものは、ある人間集団に特有の、親から子へ、祖先から子孫へと伝承されていく行動、思考様式上の固有の型『構図』のことである」とあり、更に、「文化とは人間の行動を支配する諸原理の中から、本能的で生得的なものを除いた残りのもの、伝承性の強い社会的強制(習慣)の部分をさす概念である」と言い替え、「文化をこのようなものとして捉えることは、今や言語学や人類学の領域では常識となっている」というのであった。

確かに、こういう文化があることは理解出来る。食は文化であり、学校教育は文化を教えているという表現もあり、思い当たるところであった。
しかし、まだ理解出来ないのが文化勲章の文化である。勿論、新聞は文化の日に当たり、「芸術や科学、伝統芸能など、『文化』のさまざまな分野で…」と解説している。では科学は、文化の代表格の芸術と同格であろうか?

「辞苑」(新村 出、昭和15年版)は「文化とは、人類の本来所有する理想を実現してゆく人間活動の過程。芸術・道徳・宗教を初めとし国家・法制、経済等のすべてはその所産である。文明が一般に外的・物質的発展を意味するに対し文化は内面的、精神的なものを意味する」とある。この表現は私を納得させる。

しかし「国語辞典(昭和58年版)」は「文化とは、人類の理想を実現してゆく精神の活動。技術を通して自然を人間の生活目的に役立てて行く過程で形成された生活様式およびそれに関する表現」とある。「技術を通して…」という表現が新しいが、疑問が残る。

ここまで書いてきてメモを整理していたら、「新世紀大辞典(1968年)」の「文化」が見つかった。
新世紀大辞典では「文化とは人類のあらゆる時代を通じ、人間が自然に働きかけることによって、自らも自然状態から脱して作り出して来た物質的、精神的な一切の成果」。
但し「フンボルト(*1)以来、物質的文化を『文明』といい、精神的文化を『文化』と呼び分けることが多い。ちなみに、文明とは『生活、特に衣食住のための技術・秩序が改善された状態、物質面において人間生活が発展した状態』とある。

私が小学校で初めて教わった「文明」は「文明の利器」という表現であったがこの文明はフンボルトの分類に従ったものといえよう。「辞苑」の文化もこれである。
(*1):ドイツの言語学者であり、政治学者であり、文人でもあったヴィルヘルム・フォン・フンボルト(1767~1835)

今日政府が用いている「文化」の定義は、フンボルト以前の、よりオーソドックスな、精神面、物質面を分けない文化であろう。新世紀大辞典によって私の戸惑いも解決出来たようである。原文:1991(H03)12. (2005.11.03再:2009.11.06)

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2009/11/02

No.83:セレンディピティ(serendipity)の正しい用法 (褒められた人のへりくだった謝辞か?他人への褒め言葉か?)

2004年3月末のこと。テレビを見ていたら「セレンディピティ」という言葉に出会う。銀座だったか、旧東急百貨店跡地に出来た大型商業施設の中に「セレンディピティ」という名の高級雑貨店が出来たというのだ。恐らく店主は「掘り出し上手なお客様のための…」という意味合いで顧客の心理をくすぐる戦術に出たのではないか?と私は一瞬皮肉る思いもあったが、耳慣れないこの英単語でよくぞネーミングしたものと感心もした。

本来この言葉は科学者や技術者の間では時々聞く言葉だが、果たして正しく用いられているだろうか?と疑問に思うほど使う人にとっても難しい言葉である。例えば、著名な研究者が業績を他人に褒められた時、「あれはセレンディピティ、全くの幸運でした」などと謙遜してこの言葉を使っていた。しかし私は輝かしい業績を上げた人の素質への「褒め言葉」としての用法が正しいと思っている。

次ぎの「セレンディピティ物語」は1990年(平成2年)に私が書いた随筆の一節である。

「セレンディピティ物語」 
1950年代の初め、社会人となった私が受け取った研究テーマが、当時カナダで発明された、そして現在もこれ以上の強靭性をもつ鋳鉄材料は生まれていないという画期的な新材料の国産化研究であった。
発明者の一人ミスター・M(インターナショナルニッケルカンパニー社)は後日「この発明は私にとって全く『セレンディピティ』であった」と書いていた。

発明の端緒は第二次世界大戦中に遡るというが、当時不足しつつあった「金属クロム」と同等の効能を持つ材料を見いだすための研究中、試用した「金属マグネシウム」によって、『鋳鉄中の黒鉛形状(通常は花びら状)が球状になる現象』が起こった。この発見を契機に、当初の研究目的に無かった強靱な新材料が発明されたという。

私はミスター・Mの「セレンディピティ」という言葉を論文中で読んだ時「棚からぼた餅的な幸運」を指すものと受け取っていた。しかし私がこの言葉の真意を知ったのは、更に10年程経った1990年のことだった。私はある日大きな辞書でセレンディピティ(serendipity)を引いた。
「予期せぬ良い物(楽しいこと)を見つけ出す才能、掘り出し上手」。その原典は英国の文豪 Horace Walpole(1717-1797)のおとぎ話に「堀だし上手の三人の王子さま(The Three Princes of Serendip )」という話があり、主人公たちが絶えず巧みに珍しい宝物を発見するという物語に由来する造語とあった。
(著者:岡倉由三郎、図書名:新英和大辞典、発行所:研究社、発行年月日:昭和11年3月5日)。

その後私は更に偶然に「セレンディピティ」の用法を確信する情報を得た。
足の指を骨折した私は、携えた本を病院の待合室で読んでいた。そのE・S・モース(1838~1925)の項に、モース略伝を書いたチャムピオンの言葉として「彼(モース)はセレンディピティ即ち『探し求めていなかった良いものを偶然に発見する才能』を持っていた」と紹介してあった。
(著者:渡辺正雄、図書名:日本人と近代科学、岩波新書G67、発行年月日:1989.10.20 第6冊)。

こうして私はこの言葉が主として科学・技術分野での発見的業績を上げた人に対する「褒め言葉」として使われていることを知った。

しかし偶然と言えば偶然、病院から帰宅してラジオのスイッチを入れた瞬間、「セレンディピティ・シンガーズ」の歌声でしたと言うではないか!初めて聞くグループの歌だった。どんなグループか、どういういきさつでこの名前が付いているのかは知らないが、セレンディピティという言葉は、外国ではかなり一人歩き出来る言葉のようである。
同様に、冒頭の高級雑貨店の名前「セレンディピティ」も、「掘り出し上手」として、店主が顧客の心理をくすぐるあたり、これも一人歩きの例であろう。(2005.04.15投稿 修正再2009.11.02)

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2009/05/29

No.82 花と現代美術品

S090421cap_3 狭い我が家の庭でも4月、5月の庭の緑は目に優しく、生気に溢れている。一年のうちで私が一番好きな季節である。
花の命は短く切ないといわれる。なるほどムクゲ、アサガオなどのように朝開いて夕方に萎む花(槿花キンカ)も多いが、そんな花でも蕾が沢山ついて次々と開いてゆき、結局半月近くも楽しませて呉れるときがある。
一期一会の気持ちから、この花の最高の美しさはいましかないと思うときや、もう来年の出逢いは無いかも知れないと思うとき、いきおい私のデジカメは出番が多くなる。

S090421_2 しかしこうしたブログに発表するとき困るのが花の「本名」だ。私は植物の専門家でもないし、身近に図鑑や文献もないので、正しい花の名前を知らないことが多い。結局無責任ながら我が家での通称が大手を振って世間を渡ることになる。                 

若い時は図書館の分厚い図鑑をめくって花の名前を確かめたこともあるが、今日では便利なインターネットのお蔭で、他人のHPやウイキペディアなどから、名前や原産地などを参考にさせて貰うこともある。しかし注意しなければならないのは、中には「孫引き」もあって、全幅の信頼は出来ないことだ。          S090519cap                                                                                

私が嘗て技術者をやっていたとき、誤植か不注意な孫引きからか、技術図書中の引用文献の原典に到着できなかったことがあった。

また、数年前のこと。インターネットでルーブル美術館の1日の入場者数を調べたとき、コピーかと思われる程4万人/1日という数字が見られ、それでは年間ざっとみても1200万人かと驚いたが、恐らくこれこそが孫引きではなかったろうか。
最近再度ルーブル美術館の入場者数を調べたところ、この4万人/1日説のほかに年間500万人説、840万人説なども見られて大分常識的になってきたようで一安心したところだ。

ここに登場させた花の写真は、作品1枚のために20枚位撮影している。それを可能にしているのが庭先の花だからということと、デジカメのおかげである。勿論花が好きでHPを作っている人達は私と同じようなことをやっておられるに相違ない。

S090513_cap

ところで私は、「この花は美しい」、「この写真は美しさをよく表現できた」と自慢して皆さんに押しつけているところがある。
だが時に私は、花に対する感性、感覚的能力、或いは美意識は人間に共通したものかどうか?と疑問に思うことがある。もっと広くいえば「真・善・美」は人間の普遍妥当な価値であろうS090525か?という疑問である。

私は「現代美術」というものが全く理解できない。「醜悪」とまではいわないまでも「ときめき」を感じないのだ。しかしそういった前衛的作品にお金をかけて美術館を建設しようというのだから、評価できる人もいるのであろう。そう考えれば「美意識は人間に共通する普遍妥当なもの」と考えては間違いかも知れない。「美意識は人それぞれであり、自分の好悪、価値観を他人に押しつけてはならない」と。

先日(2009.05.27)の朝日新聞大阪北摂版によれば府は90年代総額9億5562万円を投じて7,800点の現代美術品を購入しているが、府立現代美術センター構想(1988)がその後景気悪化による財政難で2001年に白紙となり、展示場所や保管場所に苦労していと書いている。それら作品の一部であろうが以前から大阪モノレール駅構内のコンコースに展示してある。私は「美しさ」を全く感じないでいるが、立ち止まって熱心に見ている人もいないようであり評価出来ない人が多数派であろとも思う。

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2009/01/31

No.81:2009年新春雑感

S  1:成人式と非正社員問題
2:国旗
3:大河ドラマ「天地人」
4:年賀状問題
5:消防出初式

1:成人式と非正社員
今年は百年ぶりといわれる世界規模の大不況の中に明けた。12日(月)成人式、彼らへの祝福が嫌みや皮肉に聞こえるような経済不況の荒海の中に船出した。新成人のみならずこの春希望に燃えて新社会人として、第一歩を踏み出す筈の若者にも内定取り消しなど、就職難民への危機が待ちかまえている。「頑張れ!」と言いたいところだが、「どう頑張れと言うのか?」と反問されれば私はどう答えたらいいのか?

成人式など無かった我々の世代、新社会人となった1952年春(敗戦後7年)、入社式には殆どの同僚が紺色既製服の背広で臨んだ。紺色ヘリンボン背広生地、ようやくそんな生地が出回り初めていた。既製服背広約1万円、4月の初任給が9千円の時代であった。そのためか、学生服のまま入社式に臨んだ友人もいた。現在とは比較にならない貧しい時代であった。
                                                                              
コンピュータの進歩によって金融、生産、物流、販売などの業務、管理、情報処理、伝達といった一連の社会システムが構築され、今日のグローバル化社会が出現したと考えてよかろう。しかしこのグローバル化が皮肉にも不況を世界中に拡散、伝搬したと考えられる。
こうして、本来不況の責任を負うべき大人達もなす術も無く、人生の先輩らしい知恵や体験で若者に助言することも出来ないでいる。

非正社員の問題であるが、25年ほど前のこと。我々の職場に事務職として配置された女子事務員は10時出勤、午後3時退出という当時としては驚くような変則勤務であった。私は「何故そんな勤務を希望するのか?」とその女性に尋ねた。「自分の都合に合わせて勤務時間帯を自由に選べるのです」と。当時珍しく感じたことを思い出す。私は新しい時代の到来を半ば感心しながらも何か不安に感じた。「古き良き時代の日本の労働慣行が崩壊するのでは?」という思いだった。
この制度は1985年に成立した労働者派遣法(施行は86年)によってそれまでの規制が緩和されたもので、当時、事務職に限られていたようである。2003年の改正で派遣期間の上限を1年から3年に延長、さらに製造業への派遣も解禁となった。こうして製造業への正式適用は2004年3月1日から始まり、今回の経済不況の中での「派遣切り」というような悲劇に発展したようである。

この法制化の背景は、テレビや新聞で解説されているが、産業界が不況時の労働力の調整弁としていつでも雇い止め(契約更新しないこと)ができるように80年代になって国に労働者派遣法の制定を強く求めたこと。与党もこうした産業界の要請に応じ、野党の「不安定雇用の増加につながる」という反対を押し切って制定されたという。日本の労働法制は、もともと「雇用されて働く正社員」を前提として規定されており、派遣労働は禁じられていたと報じている。
毎日新聞社(http://www.mainichi.co.jp/syuppan/economist/050322/1.html

こうしてこの約20年間に国は、派遣労働の「規制」から「推進」へと大転換し、雇用は多様化し、国際競争力の強化に貢献したとも言えるが、その一方で「同一労働・同一賃金への取り組み努力」を国は怠ったといわれている。
1月30日の朝日新聞夕刊によれば2008/10~2009/3間の、失職する非正社員は12万4800人、今春就職予定者のうち、内定を取り消された大学生・高校生は1215人になったという。
危惧はいよいよ現実となってきた。一個人では対処出来がたい規模の問題、政府に一日も早い対応、対策を求めるところだ。
 
2:国旗
1日、近所の神社に初詣した折町中の日章旗を探したが交番と、ある民家それに我が家のみであった。祝日は旗日である。旗も立てず祝日を単に休日に終わらせている責任は誰に在るのであろうか?S_2

写真は昨年11月末、芦ノ湖で見た遊覧船で、船尾に日章旗がはためいていた。よくぞと思ったが、実は船舶は日章旗の掲揚を義務付けられているという。公海でない芦ノ湖では無意味のように思われたがへんぽんとひるがえる様は美しかった。
祝祭日には日本人は誇りを持って日章旗をに立てて欲しいし、在日外国人は日本の旗日を共に祝っても良し、母国の祝祭日を堂々と自国の国旗で飾っても良かろう。

3:大河ドラマ「天地人」
今年(2009)のNHKの大河ドラマ「天地人」が始まった。この「天地人」という表題は簡略化されているためどう解釈すべきか気になるところだ。
この語源は「天の時は地の利に如(し)かず地の利は人の和に如かず(「孟子‐公孫丑下」による)」即ち人の和に及ぶものはないという意味が一般的である。
出典:
http://members.jcom.home.ne.jp/diereichsflotte/XunziMencius/LuckyIsNotAsLooksIsNotAsCooperation.html(酒匂貴一氏)

出典:天の時は地の利に及ばず、地の利は人の和に及ばない。
http://www001.upp.so-net.ne.jp/tomiyan/kotenpage44.htm

しかしドラマの著者「火坂 雅志 ひさかまさし」氏はいう。
「『天地人』は、上杉家の知謀の執政・直江兼続の生涯を描いた作品。『天地人』というタイトルの由来は?上杉謙信の言葉に由来します。
『天の時、地の利、人の和の三つが整ったときに、物事はうまくいく』ということを言っている。なかなかそれを整えられる大将は古今東西少ない。でもそれを整えることに務めなさいということです。直江兼続もその教えを受けたということで、そういうタイトルになっています」という。

実は私のブログNo.18(2005.06.05付け、カテゴリーをクリック)で私も本来の意味(孟子)と異なる使い方をしたことをことわっている。「天」、「地」、「人」の三者が一体化した時初めて偉大な成果が得られるという解釈をした。
「当時、佐賀は何故にこうも人材を輩出し得たであろうか?その原因の一つはまさに『地の利』であり、その地の利に育てられた人材(『人の和』)が明治維新という『天の時』に遭遇し活躍した」と私は解釈した。

しかし天、地、人の三者一致は、人為的に努力して成るというものではあるまい。三者一致のチャンスは偶然に来るとしても、それを生かし切るかどうかは「将」の力量であろう。
こう考えてくれば孟子の原典とは別に、新しい解釈として「天地人」とは「三者一致の成果」を成句として考えてもいいのではなかろうか?
火坂 雅志氏の、原典を無視して上杉謙信の言葉として披露した理由は、私と同じ発想であろうか?

4:年賀状問題
私は一昨年(2007)末作成の年賀状に、今回限りにさせて頂きたい旨の添え書きをした年賀状が少々ある。比較的お付き合いが浅く、惰性的に年賀状を交換している方々への年賀状の問題である。私はこのまま継続することは反って先方にご迷惑ではないか?と考えたためだが、後期高齢者の私であれば少しずつ身辺整理をという気持ちもあった。ただ、代案として必要に応じて適時メールで連絡や近況報告などはさせて貰いたい旨の付記もした。
この問題の結論をいえば、私の申し出に対して、数名の方には同意して頂いた。しかし若い方の中には私の申し出にも拘わらず今年も年賀状を送って頂いた方もあり、これをどう理解するか私は複雑な気持ちである。

また逆に、昨年のお正月に後期高齢者の方から頂いた年賀状に、今年限りにさせて頂きたいと付記のあった年賀状があった。私は先方の申し出に忠実に従って今年は欠礼した。
しかし家人が言うに「先方は、年齢的に自分で年賀状をしたためることが苦痛になっての申し出ではあろう。しかし年賀状を貰えば嬉しいに違いないので、出した方が良いのではないだろうか?」という。こちらも私の思いは複雑である。

5:消防出初式
1月11日、私は生涯で初めて私が住む町の消防出初式を見学した。S_3
消防出初式は毎年新春早々に、消防職員、団員の職務遂行への決意向上と士気高揚を目的に、合わせて一般市民の防火思想の普及を図ることを目的に消防出初式が開催されるようである。
私など消防車両といえば消防ポンプ車と思っていたが観閲で見た車両は化学車、タンク車、ポンプ車、救助工作車、人員搬送車、特殊災害支援車、救助工作車など多岐に亘っており、また、一口に消防署員といっても、市の消防職員の他に地域の安全は自分たちで守るべく組織された消防団員、更には家庭からの火災発生を防止すべく組織された女性防火クラブ、幼稚園には幼年消防クラブが、また日本レスキュー協会災害救助犬なども組織されていることを初めて知った。
これらの行事の合間に消防音楽隊の演奏があり、三連はしご訓練、一斉放水、更には近隣高校の女子チアリーダーのショーを見学し、有意義な一日であった。(2009.01.31) 
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